ただいま6月22日に発生したサーバ障害の影響で一部コンテンツを正常に閲覧できなくなっています。皆様にご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません。

【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

mitsukuri_s.jpg

文政8年(1825)、呰部教論所の学監 菊池文理の二男として阿賀郡下呰部村(現真庭市下呰部)に生まれる。江戸に出て箕作阮甫に蘭学を学び、後にその養子となった。
文 久元年(1861)、幕命により通商条約実施延期交渉のため、欧州六か国を訪問。また慶応2年(1866)には、北方領土境界交渉のためロシアを訪問する など、幕末の外交交渉に活躍した。維新後、英学塾「三叉学舎」を開設、原敬・東郷平八郎・平沼淑郎ら多くの門人を育成するとともに、森有礼・津田真道・福 沢諭吉らと明六社を興し、明治初期の代表的知識人として知られた。19年(1886)東京で没す。(資料提供:洋学資料館)

mitsukuri_s2.jpgmitsukuri_s1.jpg

ブロンズ像



syuhei_1.jpg 箕作秋坪肖像(写真:津山洋学資料館)

~箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の生い立ち~
 箕作阮甫は、娘婿の省吾を病気で亡くした後、弟子の菊池秋坪を次の養子に迎えました。今回は、その秋坪の生い立ちについて紹介しましょう。
 文政8年(1825)12月、秋坪は備中国下呰部(現在の真庭市下呰部)にあった学校「教諭所」で、学監(副責任者)をしていた菊池文理の二男として生まれました。地域を回って人々を教化していた文理は、温和な人柄で尊敬されていたといいます。ところが、秋坪が13歳の年、文理は39歳の若さで亡くなってしまいます。秋坪の兄も早くに亡くなっていたため、秋坪と母と妹は地域の人々に支えられながら、そのまま呰部で暮らすことになりました。
 天保12年(1841) 、17歳になった秋坪は、父の友人であった津山藩に仕える儒学者・稲垣研嶽に引き取られ、津山へ移り住みます。そこで漢学の基礎を習得すると、父と研嶽の師匠である儒学者の古賀侗庵を頼って江戸へ上り、儒学を学ぶことにしました。
 しかし、この頃は相次ぐ外国船の来航で蘭学の需要が高まりつつあり、時勢を察した侗庵は秋坪に蘭学を学ぶよう勧めます。こうして弘化3年(1846) 、22歳の秋坪は阮甫に教えを請うことになったのです。
 阮甫の下で勉学に励んだ秋坪は、その向学心を見込まれて阮甫から養子になるよう勧められました。嘉永2年(1849) 、秋坪は大坂にある緒方洪庵の適塾に入門します。適塾の記録には「箕作阮甫の義子」と書き添えられているので、この時には、もう養子の話が内々に決まっていたのでしょう。阮甫と洪庵は、宇田川玄真の下で学んだ兄弟弟子だったので、阮甫も信頼して洪庵に秋坪を託せたのです。この頃に阮甫が秋坪に送った手紙には、しっかり勉学を修めることを願った、温かい言葉が綴られています。
 嘉永4年(1851) 、2年間の修業を終えて無事に江戸へ戻った秋坪は、阮甫の三女つねと結婚し、新進の医師として活躍を始めます。そのわずか2年後、浦賀にペリーが来航し、日本は開国への道を歩み始めます。そして秋坪も、その時代の流れに直面していくことになるのです。(文:「洋学博覧漫筆Vol.39より)


箕作秋坪の二男

菊池大麓(きくちだいろく)1855-1917は、。ケンブリッジ大学を首席で卒業。東京大学に数学科を創設。東京・京都の各帝国大学総長、文部大臣を歴任彼の刊行した『初等幾何学教科書』は明治から大正にかけて教科書として使用され、「菊池の幾何学」は有名となった。(文:津山洋学資料館より)