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取材記事内をタグ「美作の大庄屋巡り」で検索した結果,27件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋「大寺家」(美作市)

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大寺家 大寺三郎左衛門 英田郡土居村 森藩
大庄屋まで
 大寺氏は、鎌倉時代の末から英田保の地頭だった安東氏の一族であるという。安東系譜によれば、寛永年間(1624~1644)に大寺伝右衛門が、大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 寛文4年(1664)伝右衛門の孫三郎左衛門は不都合があったとして大庄屋を罷免され、家屋・所有地をすべて没収されたといわれる。
 その翌年に山外野村の安東三郎兵衛が大庄屋に任命された。

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美作の大庄屋巡り「矢吹家」(美咲町)

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矢吹家 矢吹孫左衛門 勝南郡行延村 森藩
大庄屋まで
 矢吹氏は、平氏と密接な主従関係を結んでいた備前の難波氏から出ているという。文明年間(1469~1486)羽仁の鴛淵城(おしぶちじょう)にいた難波九郎左衛門の後裔難波信正は、荒神山城の花房職秀の家老を務め、神楽尾城攻めに当たっている。職秀が荒神山城を退去した後、行信村で帰農した。
その後、三郎左衛門は難波から矢吹を名乗り、孫左衛門が貞享2年(1685)大庄屋に任命された。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた孫左衛門は、貞享3年、4代藩主森長成の家督相続祝いに植月新右衛門、粟井六郎右衛門、立石五郎右衛門とともに江戸へ行っている。矢吹家は、森藩改易後も庄屋や中庄屋などを勤め、当主は日記を残している。これが『近世行信略記』『矢吹禄』としてまとめられて、のちに『近世作南農村史料』(矢吹修編)として刊行されている。

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美作の大庄屋「青井家」

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青井家 青井平内 勝南郡岡村 出石藩
大庄屋まで
 青井家の家伝によれば、赤松円心に仕え、今井姓を名乗っていたが、母方の青山氏の姓とあわせ青井に改姓したという。のち、宇喜田直家に従い、天正5年(1577)岡村に移住したという。岡村など8か村が出石藩領になった延享4年(1747)、青井平内は明見村古田氏とともに大庄屋に任命された。平内の父は祠に祀られている道林禅定門という。
大庄屋として
 青井平内の子軍太は、寛政10年(1798)、岡村絵地図を作成している。出石藩は、岡、為本、明見、入田、金井、中原、百々、周佐8か村を支配し、青井氏、古田氏が管轄した。

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美作の大庄屋「中島家」(高野本郷)

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中島家 中島九郎兵衛 東南条郡高野本郷村 森藩
大庄屋まで
 中島氏の記録は、鎌倉時代末に中島隆家が高野郷の地頭職であったことに始まる。康永3年(1344)に出された足利直義の安堵状から中島隆家が元徳2年(1330)息子幸家に高野郷の地頭職を譲ったことがわかる。その後、信長の中国攻めに従い、天正6年には羽柴秀吉の配下となり、高野・広野・林田・田中・新野などで1150貫文の知行を安堵された。秀吉の三木城攻めに従軍している。高野城に居城したという。九郎兵衛が森藩の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 九郎兵衛のあと六郎兵衛・五郎兵衛が大庄屋を勤めたが、詳細は不明である。享保年間本家は絶家した。一宮中島家はここから分家した。

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美作の大庄屋巡り「多胡家」

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多胡家 多胡勘右衛門 東北条郡綾部村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 多胡氏は、尼子氏の家臣として出雲国に居住していた。尼子氏滅亡後は宇喜多氏に仕え、医王山合戦では宇喜多氏の武将として戦っている。秀吉の朝鮮出兵に参加したといい、宇喜多氏滅亡後、綾部村に帰農した。吉兵衛が森藩の大庄屋に任命され、以後大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 大庄屋を勤めた多胡氏は、屋号を米山という。経済的に行き詰まり、安永5年(1776)大庄屋職を取り上げられ、その後再び大庄屋に任命された。栄二郎は第1次長州戦争に従軍した。(雲路日記)

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美作の大庄屋「安東家」(美作市)

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安東家 安東弥右衛門 英田郡土居村 森藩 幕府領
大庄屋まで
 安東氏の遠祖は、英田保の地頭であった安東千代一丸である。彼の名が、康永4年(1345)の足利直義の下知状に見える。千代一丸は、比丘尼城(美作市山口)の城主であったといわれる。
 寛文4年(1664)大寺三郎左衛門が大庄屋を罷免された翌年、山外野村の安東三郎兵衛が土居村に移り、大庄屋に任命されたという。
大庄屋として
 土居宿の本陣は、当初妹尾氏が代々勤めていたが、後に安東氏に代わった。安東家は大庄屋も兼務して、土居宿の運営に深く関わった。大庄屋をやめた後も、幕末まで本陣の経営に当り、参勤交代の手配や宿場の維持に尽力した。
 文化10年12月19日伊能忠敬の測量隊が本陣に止宿した。


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美作の大庄屋巡り「安黒家」

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安黒家 安黒和助 東北条郡大篠村 松平蕃
大庄屋まで
 安黒氏は、赤松氏の家臣であったといわれる。
嘉吉元年(1441)嘉吉の乱によって赤松満祐が滅んだ時、津山の林田に逃れ、安黒姓に変えたという。林田には安黒谷の地名が残っている
 大篠の屋敷跡の南にある台山城城主として尼子氏・浦上氏・毛利氏に従った後帰農した。
 元文5年(1740)安黒和助が大庄屋に任命された。
大庄屋として
 大庄屋としての記録がなく、不明である。安黒豪平は津山藩士広瀬家の養子になり、その子広瀬臺山は、津山藩のお抱え絵師として有名である。臺山は山水画を得意とした

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美作の大庄屋めぐり「土居家」(東田辺)

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土居家 土居藤七 西北条郡田辺村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 田辺村土居家は、田邑土居家の分家である。田邑村七郎右衛門の三男伊右衛門が、寛文12年(1672)に田邑村に居住したまま田辺触の大庄屋に任命され、田辺触として、6か村石高2489石を所管した。伊右衛門は天和元年(1681)田辺村に移住し、同3年伊右衛門の死去により、河辺村土居家にいた弟の七衛門が名を藤七に改め、2代目となり大庄屋を継いだ。
大庄屋として
 藤七は、元禄11年(1698)、美作国に10万石で入封する松平家に大庄屋及び領民を代表して香山太郎兵衛とともに江戸まで祝賀の挨拶を行っている。藤七は、東一宮中島氏とともに第一次長州戦争に従軍した。『美作の大庄屋、大年寄記』屋号を中屋という。

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美作の大庄屋巡り「島田家」(院庄)

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 島田家 島田太郎兵衛 西々条郡院庄村 森藩
大庄屋まで
 島田氏は、鎌倉幕府の役人としてこの地へ移り、代々太郎兵衛を名乗ったといわれる。美作一国の領主となった森忠政は構城の築城にあたり島田家に居住し、忠政の子忠広は島田家で生まれている。
 島田家は元禄10年(1697)まで4代大庄屋を勤めたが、5代目は幼少であったため、後見役を勤めていた江川四郎左衛門が森藩改易後、大庄屋に任命された。
大庄屋として
 慶安元年(1648)布原台地の開発に関わった。

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美作の大庄屋「土居家」(下田邑)

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土居家 土居七郎兵衛 西北条郡下田邑村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 土居氏は、伊予の河野家の末裔である。天正年間に毛利氏の武将であった土居四郎次郎が神楽尾城の守りとして入ってきたのが、田邑土居家の始まりと伝えられている。その子、孫右衛門が帰農した。七郎右衛門が寛永8年(1631)大庄屋に任命され、二男太郎右衛門が河辺村土居家、三男伊右衛門が田辺村土居家として分家し、ともに大庄屋を勤めた。

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