11月のイナバ化粧品店です。
2017年11月14日のイナバ化粧品店さんです。この日は冬のセール期間中でお店の中は全国へお送りする荷物の準備で慌ただしそうでした。ママはお元気でファンの皆さんへ「はい!パワーを持って帰ってね!」とハグをされていました。また、ファンの方が来られるたびに「はい!これが津山の地図だから見てね!」と津山をアピール。今週末から津山は冷え込んで来そうですのでお身体ご自愛くださいね。
2017年11月14日のイナバ化粧品店さんです。この日は冬のセール期間中でお店の中は全国へお送りする荷物の準備で慌ただしそうでした。ママはお元気でファンの皆さんへ「はい!パワーを持って帰ってね!」とハグをされていました。また、ファンの方が来られるたびに「はい!これが津山の地図だから見てね!」と津山をアピール。今週末から津山は冷え込んで来そうですのでお身体ご自愛くださいね。
2017年11月12日の少し曇り空だったのですが、夕暮れ時にグリーンヒルズ津山へお散歩に行って来ました。今丁度イチョウの木が黄色に色づいてとても綺麗でした。また、トリムの森は縄文遺跡をモチーフにした遊園地です。
大地のウォールや石・丸太の滑り台、大きな自然石、砂場、ターザンロープなど子供達の豊かな想像力を生かした遊びができるゾーン。「トリムの森のわんぱく城」は県内の木材を使用した大型木製遊具で、低年齢の児童から小学校高学年までのお子様が安全に遊べる人気スポットです。ファミリーのためのテーブルベンチもあり、幼児から大人まで楽しめ、一日ゆったりと過ごせます。
2017年10月28日・29日午前10時~午後4時まで津山市沼の柳どおり周辺に於いて「柳ストリートマーケット」が執り行われました。初日の28日はあいにくの雨模様になり残念でしたが、各お店の工夫を凝らした品物が店頭に並んでいました。かぼちゃの重さ当てクイズに挑戦したり、ワークショップでは楽しそうに作品を作っておられました。また、沖縄県人会のみなさんも、テントの中でエイサーを踊っていらっしゃいました。おにぎり美味しかったですよ。
本堂横にあるのが樹令200年の「傘大モミジ」。2009年に大手術をして、今年は元気になって美しい姿で、一際めだっておりました。善應寺は高等高田小学校跡地の碑があったり、モミジの根元には、高浜虚子が読んだ大紅葉の句碑もあります。(2015年11月11日取材)(2015年のアジサイ)、(2014年の取材)、(2014年のアジサイ)、( 2012年の善應寺の樹令200年の「傘大モミジ」)、(2009年の取材)
2017年11月5日の津山市は良いお天気になりました。午前10時~重要伝統的建造物群保存地区一帯で「第28回 出雲街道津山城東むかし町」が賑やかに催されました。
このイベントは、昔ながらの町並みが今も残る城東地区一帯を会場としたイベントです。出雲街道沿いの1.2kmが歩行者天国となり、時代行列や消防音楽隊パレード、時代仮装行列など様々なイベントが催され道行く人を楽しませてくださいました。出雲街道に着物姿の人々が往来していたんだと思うとロマンがありますね。(2016年の様子)
上紺屋町の町内神。浮田の名の由来は、不詳。
ここの道路の北側に稲荷社と金比羅社が把つであったが、明治の頃、町内の鳥羽屋に肥られていた御大師様と合わせ三体を並べて大師堂と称し町内でお記りするようになった。その歴史は明らかでないが、古くからのものと思われる。
所在:津山市上紺屋町 祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
創建:不詳 祭礼:秋祭10/第三日曜 (文:津山城下町まちなかお社巡りマップ 津山まちづくり本舗より抜粋)(撮影2017年4月23日)
浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。
浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。
坪井町の町内神は伏見稲荷より文政4年(1821)に勧請した髙守神社である。
髙守神社のある場所に髙砂屋金次郎という人が住んでいた。その屋敷神とし記られていたものが町内に引き継がれている。以前は髙森神社と称していたのを、明治24年(1891)に社殿が造営されたのを期に改めた。表通りからは見えずあまり知られていないが、きれいな町内神である。(文:『津山城下町まちなかお社巡りマップ』 津山まちづくり本舗)(撮影:2017年4月23日)
日本の教育や音楽隊などに本格的に西洋の音楽が導入されたのは、明治時代以降と言われていますが、江戸時代にも長崎出島を通じて洋楽はもたらされており、オランダ人と交流するわずかな機会を通じて、日本人もその調べを耳にすることができました。そのような状況の中で、津山藩の洋学者宇田川榕菴は、日本で初めて学術的に西洋音楽を研究し、「西洋楽律稿」などの稿本を残しました。
本展では、出島への伝来から、ペリー来航、開国に至るまでの江戸時代の西洋音楽受容の歴史と榕菴の研究について、版画や錦絵、榕菴の直筆資料を通じてご紹介します。(文:津山洋学資料館HPより)(2017年10月17日撮影)
津山城の二階町門の前に、堀に沿って南北に続く町で、一説には、森藩時代の初期には、二階町を西京町と称していたが、その後、豪商の蔵合家が二階建ての家を建てたので、二階町と称したとされる。
蔵合家は、井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場する豪商で、二階町の屋敷は、間口二十三間(約四十一 m )に及ぶものだった。
ランプの建物。昭和40年代にお好み焼き屋があった赤レンガのお洒落な建物。