人形仙三十七人墓

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上斎原振興センターより人形仙林道を北上し、美作北2号線との合流点より西側へ50mの所にある。
 この人形仙一帯は、江戸から明治時代にかけてタタラ製鉄が稼業されていた場所でもある。
 明治12年(1879)と19年(1886)に、全国的にコレラが大流行し、それぞれ10万人前後の病死者を出した。人形仙鉄山でも明治12年夏に流行し、当時の鉄山人口の約200人のうち62人がコレラにかかり、37人が死亡した。三十七人墓はその供養である。(文:『鏡野町の文化財』より)(2017年4月30日撮影)

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上斎原村役場を左折して行くと、4月30日なのに道端にはまだ雪が残っていました。

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広域基幹林道美作北2号線沿いにあります。

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三十七人墓の伝説
 人形仙(1004メートル)の中腹にある三十七人墓の伝説である。人形仙には津山の殿様の鉄山があり、多くの人が働いていた。明治の初めコレラが流行し、消毒に石炭酸を使った。これを飲めば病気が治るといううわさで飲んだところ、一度に37人が死んだ。その墓が37人墓だと。
 墓には「三十七霊供養塔」とあり、明治12年7月~8月に鉄山の住人200人のうち62人がコレラ(虎列刺)にかかり37人が死亡したと記されている。(文:全日本刀匠会HPより)

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上齋原村重要文化財  有形文化財 人形仙三十七人墓 
 このあたり一帯は人形仙と云いタタラ製鉄が行われていました。
明治12年7月から8月にかけてコレラ伝染病が発生37人の犠牲者が出ました。この霊を供養するために建てられたものです。昭和63年7月28日指定  上齋原村教育委員会 
(文:現地看板より)※看板内の明治21年は明治12年の誤りか?

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附近には沢山のお墓が残っています。