伯耆(ほうき)往来「距津山元標五里」

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距津山元標五里(2017年4月30日撮影)
 江戸時代が終わると、明治政府は道路網の改革に着手しました。明治2年(1869)1月には、行政官布告第59号により、全国の関所を廃止しました。
明治6年(1873)12月には、大政官布告第413号により、全国の主要道路の実測調査を実施し、1里ごとに里程標柱を整備するよう通告を出しました。起点は、東京日本橋と京都三条大橋及び県庁所在地としました。布告の中には全国41のルートが記されていますが、その中に「播磨国姫路より美作国津山夫より伯耆国米子に至る」とあり、出雲往来も含まれています。
 この布告により、美作北条県は、明治5年(1872)8月から明治7年(1874)2月までの間に、管内の津山往来、出雲往来、伯耆(ほうき)往来、因幡往来の実測調査を実施しました。そして、宮川大橋西詰を起点として、桧か松製の標柱を設置し、明治7年2月末までには完了したものと思われます。その後順次木製から津山石(擬灰岩)製に取り替えられました。この時の道標が、「津山元標」と呼ばれているものです。

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 津山元標は、津山往来7基、出雲往来(東方)7基、出雲往来(西方)15基、伯耆(ほうき)往来9基、因幡往来8基の合計46基が設置されたと思われますが、現存する津山元標は、25基で現存率は54%になります。津山元標の設置に際しては、最も往来の多い津山往来を最初に整備し、次に、宮川大橋西詰の起点から近い地域を整備し、その後、残りの地域を峠まで整備していったことが検査年月からわかります。
 明治政府は、関所の廃止、道標の整備、道路の等級による道路幅の拡張、一里塚の廃止等、徒歩から荷馬車・人力車・乗合馬車等の車両による物流の時代への転換を意図したのです。(文:『美作の道標 元標道標と津山元標』より)

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倒木で車から徒歩に変更して入る。

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倒木が多く何だかうす暗く怖い道です。              みつまたの花です。

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途中、道に迷いながらも前に進む皆さんです。

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ようやく見つけた入口から伯耆往来に入る

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道なき道をひたすら進むみなさんの後を追う

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途中、遅れないよう必死で後を追う為、写真は手ぶれでボケています。

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ここは、屋敷跡の石垣が現存しています。

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更に進む

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やっと見つけ喜ぶ皆さんです。

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「距津山元標五里」「明治7年1月・・・」「西々条郡・・・」の元標を見つめる皆さん

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津山高校山岳部の皆さんの通る道でもあるようです。
翌日、熊の目撃情報の報道に一同ぞっとする。