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睨み合いの松・院庄東公園

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▲にらみ合いの松は院庄字石守の田圃中にあり、にらみ合いの松で有名です。墓趾は南北に分かれてその上に植えられている古松が当時を物語るかのようである。また、ここは院庄東公園内であり、その中ににらみ合いの松が植えられています。(2011.4.9)

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国分寺

鎮護国家を標榜された聖武天皇は国ごとに国分寺、国分尼寺を置かれましたが、美作国にも現在の東津山駅から1kmばかり南東の場所に作られました。全国の国分寺の中でも最大級のものだったようです。(→史跡:美作国分寺跡についてはこちら

しかし、当時の建物は、兵火によって悉く灰燼に帰し、今は礎石が幾つか残るのみとなっています。現在の建物は津山藩松平氏の援助により、文政11年(1828)に再建されたということです。

https://www.e-tsuyama.com/knowledge/history/kokubunzi/kubunnizi.html

津山城(鶴山公園)の石垣についてその2

その1その2その3その4その5

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▲表中門(二階建ての門で、大阪城、名古屋城、江戸城を除いて一番大きな門で、登城する石段としては全国でもまれな石段の幅といわれているそうです。)

津山城の石垣は発掘調査で見つかった埋没石垣を除き、城内で観察することのできるものについては、おおむね3つの類型に分類することができます。
1、自然石あるいは自然石を打ち割っただけの石を用い、角の部分も不規則な石で構築するもの。
2、表のみ面をのみで平滑に加工した石を用い、石と石の間を小さな石(間詰め石)で詰め、角には大きさのそろった長方形の石を用いるもの。
3、表面を繋で平滑に加工し形をほぼ四角く整え、間詰め石をほとんど用いず、角の部分も長方形の石を規則正しく積み上げているもの。の3つです。これらはその石の加工の具合などから古い順に1→2→3と技術が進歩していったものと考えています。

1の特徴をもつ津山城で最古階段の石垣は城内のどの辺りになるのでしょうか?
それは本丸の東側の太鼓櫓や月見櫓が乗る石垣、本丸の入り口の切手門南側の石垣、あるいは搦手側(裏手側)になる七間廊下石垣および裏鉄門枡形内の石垣などに見ることができ、本丸およびその周辺に限られるようです。(津山城百聞録より抜粋)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその3

その1その2その3その4その5

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津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。

参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)

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▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその1

その1その2その3その4その5

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▲冠木門(公園になった為石段を作ったのですが、本当の姿は左右に防備のための石垣があったらしい)

「建武のころ(1334~1337)、すなわち足利尊氏が室町幕府を開いた頃、美作国の西北条部に鶴山という山があり、別名小篠山とも呼ばれていた。その南に留川(戸川)という清浄な川があった。付近には戸川町や林田町があって、毎月の一日と十五日には戸川の市と呼ばれる市がたち、美作国中の人々が群集を成して集まり、さまざまな商品の売買をした」(森家先代実録より)

ここでいう戸川町は吉井川の河原、あるいは川に面した安定し土地と考えられ、その町場を眼前にして、鶴山の中腹には福聚山妙法寺があり、その門前には門前町があったといわれています。
伝承では、妙法寺は津山城の「柳の檀」にあったとされています。この「柳の檀」というのは三の丸の段を指しており、鉄砲櫓の下の付近に大きな柳の木があったとされています。また、城内の煙硝蔵がった付近、現在の鶴山館が位置するあたりも妙法寺の院内であったと伝えられています。
そして、煙硝蔵の一段上の段には大きな桐の木があったことから「桐の檀」と称され、そこには鶴山八幡宮があったと伝えられています。また、戸川町には、後に城下の総鎮守となる徳守大明神が祭られていました。

慶長9年(1604)春、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い鶴山を城地と定めた森忠政は、まず「鶴山」の名称を「津山」改めたとといいます。そして、その年の秋には手斧始めとして徳守神社を造営し城下町の総鎮守としました。(津山城百聞録より抜粋)

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知新館(旧平沼騏一郎別邸)

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▲表門は、主屋の正面に開かれた三間一戸の門で、両脇に塀を取り付けており、腕木を伸ばして屋根を支える形式をとっています。(国の登録文化財)2010.6.14取材

知新館の位置と歴史
平成10年10月に国の登録有形文化財となった「知新館」は、岡山県北の城下町津山市の南新座に伝わる武家屋敷で、第35代内閣総理大臣平沼騏一郎(1867~1952)の別邸として建てられたものです。
知新館のある場所は、国指定史跡の津山城跡の南西に位置し、旧津山藩士であった平沼の屋敷があったところです。昭和14年(1939)に第35代内閣総理大臣に就任した平沼騏一郎と、その兄で早稲田大学の学長をつとめた平沼淑郎の兄弟も、この地で生まれ、明治5年(1872)に東京に移住するまでの幼児期を過ごしました。
現在の知新館は、その当時のものではなく、騏一郎の古希を祝して、法曹界ならびに津山人々が中心となって平沼兄弟の生家であった屋敷を買い戻し、昭和12年から翌13年にかけて元の旧邸の姿に再現したうえで騏一郎に贈呈したものです。
彼は、幼い日の思い出の残るこの別邸を殊のほか愛したと伝えられ、郷里の津山に戻った時は、ここに滞在しています。その後、昭和25年に、この別邸は平沼家より「津山市民の公共福利のために役立ててほしい」と津山市へ寄贈されました。市では翌26年に津山市内及び周辺地域の歴史資料を収集展示した市立津山郷土館として開館し、永年にわたって津山地方の史学研究の場として大いに活用されました。
そして、昭和62年に市立津山郷土館としての使命を終えた旧平沼騏一郎別邸は、平成元年から市民の文化・芸術活動の場として再び活用されることになり、名称も「知新館」と改称され、現在に至るまで多くの市民に利用されています。

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史跡 美作国分寺跡

史跡美作国分寺跡とその特徴
  美作国分寺は、総国文寺となる東大寺と伽藍配置が極めてよく似ています。また、寺域(お寺の範囲)も二町(約220m)四方で、国分寺の基本的な規模に一 致するといわれています。その上、創建時に屋根に葺かれた軒瓦の文様は、平城宮で用いられた瓦の文様と瓜二つという特徴があります。
  美作の国は、713(和銅6)年に備前の北部6郡を分割してつくられた新しい国で、その国府(国の中心の役所)は津山市総社に置かれました。美作国分寺の特徴である都との密接な関係は、そういった事情を反映しているかもしれません。
  奈良時代中ごろに建立された美作国分寺は、その後変遷を重ねながら、平安時代末には衰退したようです。
  美作国分寺と対になり建立された美作国分尼寺は、発掘調査の結果、国分寺の西方約500mのところに存在していたことが明らかになりましたが、伽藍配置等の詳細はまだ分かっていません。

 平成16年2月27日国指定重要文化財(史跡)指定

2009.9.2
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