岩屋城跡(岡山県指定史跡)

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▲岡山県指定史跡 岩屋城跡

 嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国の守護に任ぜられた際に築城されたものと伝えられています。その後、天正17年(1589)8月、野火によって焼け廃城になるまでの148年間、山名、赤松、浦上、尼子、宇喜多、毛利の各氏が、美作国の制覇をかけて激しい攻防を繰り広げられた舞台ともなりました。

 城は岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に曲輪を配した複雑な梯郭式の山城で、本丸南に馬場、西南には石橋上や椿ヶ峪砦を設け、更に西には小分城を築き防備を固めていました。本丸東には二の丸を置き、その南には三の丸を配しています。東の谷の固めとしては、12本の竪堀を設けています。大手南斜面に見られる大小20箇所以上の防備のための郭は、美作地方では他に類をみないものです。他に井戸、慈悲門寺跡なども残っています。(2011.5.4)津山の文化財より

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 岩屋城跡ご来跡のかたへ(立て札より)
 岩屋城跡は、室町時代から戦国時代にかけて存続した山城跡です。美作地方でも有数の規模を誇り、また、その保存状態の良好なことから岡山県の史跡指定を受けている貴重な文化財です。
 この岩屋城跡の主要部である岩屋山山頂までの登山道は、二つのルートがあります。
 ①この駐車場から、慈悲門寺跡および郭群を通って本丸方面へ至るルート
(大手道)・・・馬場跡まで約1.1㎞(約40分)
②管理用道路(舗装済)を利用し、てのくぼり跡・三の丸下を通って本丸方面へ至るルート
馬場跡まで約1.11㎞(約50分)
 大手道は、一部の個所以外は現状のままとしておりますので、足許がご不安なかたは、②の管理用道路を利用したルートをご利用いただくことをお勧めします。(管理用道路入口および駐車場は、ここから約300m奥にあります。)

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 また、登山に要する時間は成人男性のおおよその目安ですので、各自の体力に合わせてお登りください。
 なお、登山にあたっては、山城の遺構を破壊しない(無断で掘削等を行うことは、文化財保護法及び岡山県文化財保護条例の違反行為となります)・動植物を採取しない・ごみは各自で持ち帰る・火気には充分留意するなど、ルールとマナーを守った登山をお願いします。
 注意
管理用道路は、史跡の管理用として整備したもので、道路法に基づく道路ではありません。このため、安全確保ができないことから一切の車両等の通行を禁止します。なお、管理者に無断で車両等で進入した場合における事故等の発生については、その理由の如何を問わず、管理者はその一切の責任を負いません。 (立て札より)

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 しょっぱなからこの階段です。(息絶え絶えでした。)

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 ▲まだかまだか・・・。先が見えない・・・。皆口々に「ほんまに、こんなとこお姫様は登ったん?」

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 慈悲門寺跡
 岩屋山慈悲門寺跡、円珍(814~891)の開基によるという伝承のある天台宗の寺院跡で、「慈悲門寺」寺号は勅賜であるという。(作陽誌)寺跡は、岩屋谷に面した尾根の上部を削平して造成され、有事の際には砦としても使用されたと考えられ、岩屋城の廃城と共に寺も廃滅したと伝えられている。
 建物等の規模・内容等については一切不明であるが、現在この地には建物礎石と考えられる転石があり、付近には瓦片や備前焼の破片等が多数散乱している。
 なお、この寺跡の周辺には多数の小規模な平坦地が多数造成されている。この平坦地の造成された時期や用途・目的については詳らかではないが、これらの占地からみて寺院関連の施設、あるいは慈悲門を守る砦の役割を果たしていたのではないかと推測される。(立て札より)

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 ▲おばぁちゃんと娘さんと孫。(この急な坂をどうやって降りたのかしばらく心配でした。)

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 山王宮跡・拝殿跡
 山王宮跡は、山王様(山王大権現)即ち近江の日吉神社の祭神である。慈悲門寺の鎮守の神であったが明治44年に鶴坂神社に合祀され、現在は小祠が祀られている。
山王宮に至る道は非常に険しかったため、一般の参拝者はこの場所にあった拝殿から参拝していたということである。(立て札より)

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 ▲まだまだ坂道です。

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龍神池
龍神池は、嘉吉元年(1441)山名教清による岩屋城築城のおり、山名氏の本拠である伯耆国赤松池にならい、この地に池をつくり、祭神を城の鎮守として祀ったと伝えられる。
 また、この池の水は、城内の生活用水としても使用されたであろう。 (立て札より)

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大きな 杉の木です。

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                                   ▲井戸です。

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 ▲東屋があり、お弁当を広げていらっしゃいました。

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 ▲展望が素晴らしいです。

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 ▲この階段を登ったら本丸跡

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 本丸跡
 本丸跡は、岩屋山の山頂を削平して造成され、東西約60㍍、南北110㍍の楕円形の規模をもつ。昔からこの地を本丸跡と伝えられていて、ここから山頂部にある城郭のほとんど全域を見渡すことができる位置である。
 また、本丸北側の垂直に近い断崖は昔から「落し雪隠(おとしせっちん)」と云われ、天正9年(1581)の毛利氏による岩屋城攻略戦の時、毛利方の将中村大炊介頼宗は、決死の士32人を選び、風雨の夜この「落し雪隠」をよじ登らせて城内に突入し火を放ち、大手口方面の攻略軍と呼応して攻めたので、堅固なこの城も遂に落城したと伝えられている。(立て札より)

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 てのくぼり跡

土地の人が「てのくぼり」と呼んでいる畝状空堀群である。東側の谷に向かい、幅約5メートル・深さ2メートル・長さ100メートル以上の堅堀が12本掘られている。有事の際、攻撃側の横移動を妨害するなど山腹防御のうえで非常に有効な施設なので戦国時代の城郭において盛んに取り入れられた。(立て札より)

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 ▲てのくぼり跡                      ▲さくらの花びらがピンクで綺麗でしたよ。

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 ▲色とりどりのさくらの花

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 ▲いろんな方の記念樹として植えられていました。