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稲荷宮石灯籠・豊川稲荷宮・亀山城跡(坪井)

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 稲荷宮石灯籠・豊川稲荷宮・亀山城跡(坪井)
石灯籠は2基あり、左側は文政9年(1826)、右側は天保8年(1837)に寄進され、何れも坪井宿の中央を流れる水路のほとりにあったものである。
 豊川稲荷は挙母藩陣屋に祀られていたもので廃藩置県後、亀山城跡に移された。
 七森神社への途中約500m北にある七森宮石灯籠は嘉永5年(1852)に寄進。「是ヨリ七森宮へ九丁」と刻んである。これは坪井宿から約900mということであり、これも水路のほとりにあったものである。

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坪井陣屋(代官所)跡

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 現在の久米町のほぼ1/5の面積を占める、旧久米北条郡十二ヵ村は、慶長八年(1603)以降、森氏(津山藩)の領内であった。
 しかしながら、元禄十年(1697)八月に四代藩主森長成が後嗣なく死去したことにより、森氏が断絶し、美作国全土は一時幕府領となった。このことにより上記十二ヵ村を含む美作国勝南・久米南条・久米北条・真島の四郡については、翌 元禄十一年九月、幕府の代官所が坪井下村におかれ、代官として西与一左衛門が着任、領内を統治した。
 その後、元禄十五年(1702)九月二十三日、上記の十二ヵ村は上野安中城主内藤氏の領するところとなった。内藤氏は、それまで陸奥国岩城城主であったが、内藤政森(1683~1738)の代に上野国碓氷と久米北条の二郡を所領とし、上野安中城に居所を置いた。(安中藩)その後内藤政苗(延享三年(1746)襲封)の代に、上野国分の所領を三河国加茂・遠江国周知・榛原の三郡に移され、三河国加茂郡拳母(現 愛知県豊田市)に築城したが(拳母藩)、久米北条郡については引き続き領有が続き、明治四年(1871)の廃藩置県に至るのである。
 元禄十一年に幕府領となった際、坪井下村に置かれた代官所は、その後幕府から内藤藩に譲渡され、陣屋として明治まで継承したが、坪井宿内のほぼ中心であるこの場所にあったと伝えられている。内藤藩時代の陣屋は、五百七十坪の敷地を有し、この中に三百三十坪程の面積の建物があったという。そして、拳母城から郡奉行以下八名が出張し(一年毎に半数が交代)、これらの人数と領内から任用した大庄屋二名を選び、領邑を統治したということである。

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坪井の一里塚

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 一里塚は、街道の両側に一里(三十六町=約4キロメートル)毎にそのしるしとして築いた塚で、五間(約9.1メートル)四方に土を盛り、中央に堠樹を植えたものである。慶長9年(1604)江戸幕府が官道(五街道)の制を定めると同時に整備されたもので、旅人に行程を知らせ、旅行の趣を増すとともに休む者には樹陰をあたえるなどの利益をもつものである。
 本町を通っている出雲往来も上記の政令により大道に定められ、五街道に準ずるものとなった。津山藩主 森忠政は幕命を受け、美作地方の主要な往来に一里塚を設置する事業に着手したのをはじめ、街道経路の変更、宿場や道路の整備など、街道の整備はより一層進められた。

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坪井の愛宕様(坪井下)

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 坪井宿跡は、過去に2度の大火を経験したことが知られている。
このうち明治14年の大火は、4月25日に出火し、坪井東町で36世帯80余棟が消失したとの記録がある。また、明治40年3月12日にも同様の火災があったことが伝えられている。
 さて、ここにある小祠は通称「下あたご様」と呼ばれている。町の西端には他に一か所同様の祠があり、こちらの通称は「上あたご様」と呼ばれている。
 この二つの祠には祇園社・愛宕社が祀られている。祇園社は京都八坂神社の午頭(ごず)信仰に始まるもので、疫病や作物の病害虫を除き、愛宕社は同じく京都西北に鎮座する愛宕神社の信仰に端を発し、火災や病気除けの神様として現在でも広く信仰されている。
 坪井の「あたご様」は、上記の大火ののち現在の場所に建てられ、現在でも地域住民によって大切に護られている。祠からは、無病息災を願い、かつ祈った当時の人々の思いが伝わるかのようである。(案内板より)

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出雲街道・坪井宿

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出雲街道・坪井宿(江戸前期~)
 坪井宿は江戸期の宿場町であり、津山から西へ約14㌔のところにある。現在は国道がこの町の北側を迂回しており、宿場町の面影を残す住宅地となっている。
 大正末期ごろまでは、宿場町の中央には水路が引き込まれ、それに沿って柳などを植えた並木があり、西から東に流れる水路の両側にはそれぞれ幅約2間(約3.6㍍)の道があった。北側の道は出雲街道で旅籠などが並び、旅人などが通る道で、南側の道は里道といい、村人の利用する道であった。まち並みのつくりが麦飯の粒の形に似ていることから麦飯町とも呼ばれていた。中央に水路のある宿場町の定形であった。現在、水路は道路の南端に移され、並木もなくなったが、明治・大正期の木造厨子2階建てや、2階建て瓦葺きの民家が並んでいる。漆喰塗壁、腰板張り、虫籠窓、格子窓、出格子、ナマコ壁、防火用袖壁もかなり残っており、宿場町の風情が感じられる。町の中央近くには、陣屋跡や石造りの常夜灯がある。

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坪井山 称念寺(大字坪井下)旧久米町

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 本寺は九品山来迎寺となっているけれ共、現在は京都の知恩院の直末である。
 元、此の寺は此の地の大庄屋福本小左衛門が自分の所有地のうち、現在称念寺のある位置に独力で小庵を建立した。時は慶長7(1602)年で、坪称庵と称した。其の後荒廃し寛永3(1626)年、福本小左衛門は独力でこの坪称庵を再建した。それから少時たった寛永9(1633)年10月22日、石州浜田生まれの道誉雲西という道心者が此の坪称庵に入って住職的な役割りをすることとなった。道誉雲西は正式な僧侶ではなく、俗人であり乍ら仏道修行に熱中した人であるが、これをもって開山と見ることもできる。

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出雲街道 坪井宿

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坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

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