稲荷宮石灯籠・豊川稲荷宮・亀山城跡(坪井)

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 稲荷宮石灯籠・豊川稲荷宮・亀山城跡(坪井)
石灯籠は2基あり、左側は文政9年(1826)、右側は天保8年(1837)に寄進され、何れも坪井宿の中央を流れる水路のほとりにあったものである。
 豊川稲荷は挙母藩陣屋に祀られていたもので廃藩置県後、亀山城跡に移された。
 七森神社への途中約500m北にある七森宮石灯籠は嘉永5年(1852)に寄進。「是ヨリ七森宮へ九丁」と刻んである。これは坪井宿から約900mということであり、これも水路のほとりにあったものである。

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 亀山城は、山の形が亀に似ているため、その名がついたといわれているが、元禄四年(1691)の『作陽誌』は「河本堡は、坪井下村にある。山の高さは百丈余、天文(1532-1555)のころ、河本肥後守がここにいた。かつて浅山与一が城を攻めたが、死んでしまった」と」記している。

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 城跡は高さ約60m、頂上は、東西60m、南北50mほどの平坦部になり、西側に土べい跡(昭和50年当時)があり、戦国のころをしのばせている。頂上には、稲荷神社が祀られているが、久米町東部の千代近くまで一望できる。

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 美作の拠点となっていた岩屋城とつながりを持っていた城で、岩屋城までわずか3キロという距離からもうなずける。河本氏の在城は、天文年間(1532-1555)に始まり、初代を伊賀守といい、次いで伊豆守、肥後守の三代にわたっている。(『亀山城史』は、『作陽誌』が天文年間に肥後守在城としているのは、初代・伊賀守の誤記ではないかとしている)
 天正年間(1573-1592)に宇喜多の美作進攻で岩屋城と運命をともにして落城したといわれている。(文:『出雲街道第3巻』より抜粋)

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稲荷宮の鳥居です。

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かなりきつい参道です。

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城山稲荷大明神です。

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                豊川稲荷宮です。        牛や猪が祀られています。

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白馬がいます。(2019年5月30日撮影)