坪井の一里塚

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 一里塚は、街道の両側に一里(三十六町=約4キロメートル)毎にそのしるしとして築いた塚で、五間(約9.1メートル)四方に土を盛り、中央に堠樹を植えたものである。慶長9年(1604)江戸幕府が官道(五街道)の制を定めると同時に整備されたもので、旅人に行程を知らせ、旅行の趣を増すとともに休む者には樹陰をあたえるなどの利益をもつものである。
 本町を通っている出雲往来も上記の政令により大道に定められ、五街道に準ずるものとなった。津山藩主 森忠政は幕命を受け、美作地方の主要な往来に一里塚を設置する事業に着手したのをはじめ、街道経路の変更、宿場や道路の整備など、街道の整備はより一層進められた。

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 出雲往来に関連する一里塚は、町内では東から順に領家・坪井・追分の三つがあったといわれているが、そのうちのひとつである坪井の一里塚は、この付近にあったという。そして、堠樹として明治初年頃まで周囲八尺(約2.4メートル)程の松があったと伝えられている。
 因みに、ここ周辺の小字名は「塚本」ということである。(文:案内板より)

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2019年5月30日撮影