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第55回 美風盆栽展

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 2017年10月22日(日) ~29日(日) 「第55回 美風盆栽展」が津山市山下の津山城(鶴山公園)内の鶴山館で開催されています。2017年10月24日の台風一過の日に拝見してきました。会場内のとても立派な盆栽に驚き、小さな枝に大きく実った柿を見て随分丹精を込めて育てられたんだなぁ~と感動しました。また、鶴山館の外では即売などがあり、鉢植えがずらりと並んでいました。茶道裏千家の淡交会津山支部の抹茶のお接待もありました。ちなみにオープンの日10月22日は、接近してくる台風の為「津山まつり」の徳守神社と高野神社のお祭りのだんじりやお神輿の出動が取りやめになったくらい近年にはない雨や風の強い日となりました。(2017年10月24日撮影)

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日限り地蔵(一方)

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日限り地蔵
 『むかし、皿川に琵琶が渕という渕があった。ここでは、毎年身投げをする人があとをたたなかった。なんとかして身投げをさせないようにしようと相談し村の人たちは、とむらいをしないという立札を立てた。その後は身投げをする人がぱったりといなくなった。喜んだ村の人たちは、そこに、延命地蔵をまつった。人々はいつとはなしに日限り地蔵とよぶように成った。』
ところがこの地蔵が部落の境にあったので、けっきょく二つに分けてまつることにした。
 今の佐良神社のがけ下にあるのが本家で、すこし南の平福の道路ぞいにあるのが分家だといわれている。いつのころからか「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まっていった。評判を聞いて、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになった。
お祭り当日には、子どもの健やかな成長と交通安全を祈って、ご祈とうをお願いしております。
ー岡山の民話よりー(文:現地説明板より)(2017年9月30日撮影)

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2017 大隅神社の秋季大祭

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2017年10月15日(日)津山まつりがスタートした。東の「大隅神社」の還幸は、雨の為イーストランドではなく、玉琳公会堂がお旅所になっていました。また、出動だんじりは、兼田・川崎・太田、玉琳・東松原・古林田・東新町・西新町・上之町7丁目・中之町・勝間田町の11台の予定でしたが、本まつりは残念ながら雨の為、太田・川崎・兼田の3台になりました。催し会場のイーストランド駐車場であったイベントの時間も雨の為少し早まって行われていました。関係者の皆様、雨の中をお疲れ様でした。(2015年の祭の様子です。)

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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赤白の彼岸花が綺麗でしたよ。

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川崎の緑地公園近くの土手に咲いた紅白の彼岸花が今年も美しく咲いていました。秋の彼岸の頃に忽然と現れて、真っ赤な花を咲かせるこの花は〔葉見ず花見ず〕とも呼ばれ、葉は花の時期にはなく、花が終わると伸びて来て秋から春まで生い茂ります。(2017年9月30日撮影)(2015年9月23日撮影

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狩野 久先生と巡る飛鳥の旅(奈良)

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2016年4月24日、「狩野 久先生(奈良文化財研究所名誉研究員)と巡る飛鳥の旅」と題して、奈良県明日香地方を訪ねてきました。朝7:00津山市役所⇒10:30飛鳥資料館⇒11:30甘樫丘⇒12:30あすか野(昼食)⇒13:30石舞台古墳⇒14:30伝飛鳥板蓋宮跡⇒15:30飛鳥寺⇒16:30藤原宮跡⇒20:00津山市役所着で盛りだくさんの行程でした。
 今回は、狩野先生がご案内くださるとのことで、大勢の皆さんが参加されていました。
飛鳥資料館では、第一展示室で、高松塚古墳をはじめとする古墳の出土遺物、日本最初の水時計である水落遺跡や飛鳥寺・川原寺など、飛鳥を代表する遺跡の出土品と模型が展示してありました。
また、第二展示室の山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古く、1,000年以上もの間地中に眠っていた建築部材を使い、保存処理に14年という歳月がかかったという記憶に残る回廊でした。

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狩野 久先生と石舞台古墳を巡る

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2016年4月24日「狩野久先生と巡る飛鳥の旅」行程の一つ、石舞台古墳を見学してきました。
石舞台古墳の解説
 この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

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人形仙母子地蔵

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 人形仙三十七人墓を西に約100m進み、二本杉の所より北へ約800m進むと、旧倉吉街道(伯耆往来)の美作と伯耆(ほうき)の国境の人形仙峠に、赤子を抱く形の珍しい「母子地蔵」がある。この地蔵は、高さ1.25mあり、文化5年(1808)に造立された。像要が赤子を抱いた地蔵となっているため、俗に「子抱き地蔵」とか「母子地蔵」とよばれ、人形仙の伝説にも残されている。前の水祭石は、明治14年(1881)米子の商人が奉納したものである。
銘文 (地蔵)天下太平 文化五辰□ 志主 上斎原村 十方 三界万霊 願主 作州西北條郡日月清明 六月吉日 沖村 □之助 (水祭石) 奉納 伯州米子茶屋 商人本田勝四郎 明治辛十四年巳七月吉日 (文:『鏡野町の文化財』より)(2017年4月30日撮影)

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瑠山 醫王寺(いおうじ)(下紺屋町)

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津山市下紺屋町にある真言宗醍醐派 瑠山 醫王寺(いおうじ)が、前から気になっていましたので、ご近所の方にお聞きしました。「昔は商店街の皆さんで寄付を募り、祇園様などのお祭りも賑やかでした。今は商店街も段々と廃れてきてしまいお祭りもしていませんが、また、年に一度くらいは堂内で会議も出来たらいいと思います。そうしたら、また皆でお掃除でもできるのですが・・・。それに、松平家も平沼家も寄付者になっておられるので何か由緒もあるのでは。」と語っておられました。また、泉水寺の住職にお聞きすると、「先代から引き継をしていなかったので詳しい事は解らないが祇園信仰(牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする。)の流れで建立されたのではないか。」とのことでした。(2017年8月23・25日撮影)

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元魚町の古称刻む徳守神社境内の石灯籠

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 慶長九年(一六〇四)、森忠政は徳守神社を城下の総鎮守として、築城と城下作りに取りかかったといわれる。以後、徳守さまと呼ばれて津山の人々に親しまれ、今も津山祭の中心として秋祭はにぎわう。その境内の北西の角、住吉神社の前に高さ約二㍍の二基の石灯籠が立つ。すっきりしたデザインは風格を感じさせる。左側の石灯籠に「寛文四年(一六六四)辰九月十九日古魚町」と刻まれる。右側の石灯籠には「寛文四年(文字が消えかけているが、間違いないと思われる)辰九月十九日二丁目」とある。
 寛文四年は津山城が完成した元和二年(一六一六)から四十八年後。森藩が徳守神社北側の武家屋敷の一部を町家にして、宮脇町と名付けた明暦元年(一六五五)よりも九年後。この時期に、藺田川以西の町も城下に編入されていった。城下の町々が整い、発展を見せていた時期といえる。二基の石燈籠はそうした時期に、隣接する古魚町(元魚町)と二丁目が協力して町の発展を願い、寄進したのであろうか。森藩時代の町々の記録が少ない中で、この石燈籠に刻まれた二つの町名は当時を窺わせる貴重な資料の一つと思われる。二丁目と元魚町の中では最も古い記録である。

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