【津山人】浅本鶴山 -放浪の陶工-

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 放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
 明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。

 昭和11年(1936年)ごろ、ひとり津山に帰ってきた。以来、居所を定めず、小さな木炭窯を築いては、ひそかに陶器の制作を続けたが、酒と貧にひたる晩年であった。ただ、子弟の養成にはよくつとめ、鶴山のまいたタネが新しい芽をあちらこちらで噴いている。佐久間行山、岡安宮山、服部定山、土居春琴等、特に最後の弟子白石蒋、白石齊兄弟がつとに有名である。
放浪の陶工とも言われながら、全国の火と土をひたすら求めて数奇な運命をたどった鶴山は、昭和31年(1956年)、市内の河原町で土居春琴等わずかな身寄りに看取られて、さびしくこの世を去った。享年72歳であった。

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大信寺参道

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浅本鶴山 -放浪の陶工-
 證誠山大信寺の山門をくぐり道を右手にとって進むと、本堂の東側寄り付きに鶴山の墓が西向きにある。この墓は鶴山が生前に建てたものらしく、元は北向きに建てていたらしい。陶碑とのみ刻まれている。これぞ、わが美術界の権威、柳亮氏に天下の名工と言わしめたほどの放浪の陶工鶴山(陶市)の墓である。この墓を、津山口の田口康雄氏が管理している。
 彼の神技の轆轤使い、奔放な箆さばき、あでやかな三彩の釉つけなど、死後いよいよ評価が高い。特に、独壇場の急須のうち、自ら代表作と銘打った「橋姫」「大雅堂」等は、比類の傑作と言われている。菩提寺、大信寺本堂の向拜の上に揚げてある扁額「広開浄土門」は、大作である。
 大信寺の過去帳によると、「信楽院陶誉鶴山居士 昭和31年9月19日没 火葬 東墓 行年72歳」と記されている。

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晩年の鶴山
 昭和28年ごろ、白石安太郎氏が、鶴山を連れてきた。酒と貧にひたる晩年、「やはり、故山の土に過ぎるものはない。」と、現在の津山民芸社裏の倉で、土にひたすら挑んだ。土は、職業訓練所と鶴山球技場付近の鉄分の多い、南蛮向きの土を、8対2に混ぜて用いた。素焼き窯は、直径約1メートルそこそこの小窯であったことがよく知られている。その手轆轤使いといい、低くした独特の高台等は、有名である。松炭で焼き締めた急須のややざらついた黒っぽい肌合いは、「もりどめ千両」とこの道の「通」を唸らせた。とにもかくにも、土と火を求めての放浪の一生であった。

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▲浅本鶴山写真:津山郷土博物館平成5年度特別展図録『浅本鶴山の陶芸』より

 鶴山の人間性なり作品なりに、人間臭いどろどろしたものが感じられてならない。また、使う人を主体とした品々を作っていることが、たまらない魅力とさえ思えてくる。
 人から奇人、変人と言われながらも、本人にしてみれば、心中ひそかに信じるところがあり、俗人どもの毀誉褒貶に耳をかさず、大勢に盲従しない、鶴山のそこが尊いのであろう。
 理屈はともかくとして、彼の養った忍耐力や創造力は精いっぱいの男のドラマを展開しているとも思えてくる。鶴山の生涯は、自信を失いかけている現代の人々にも、大きな勇気を与えるに違いない。(文:津山文化協会発行『津山の人物(Ⅲ)より』)(2017年10月7日撮影)

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大信寺のすぐ下の道「寺下通り」  大信寺参道          「寺下通り」

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ふ~てんの寅さんの撮影があった所です。


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鶴山が作ったチラシ                浅本鶴山が描いた絵日記

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浅本鶴山が描いた絵日記

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浅本鶴山が描いた絵日記(白石齊さん提供)

浅本鶴山さんと晩年を一緒に暮らした、白石 齊(陶芸家)さん、白石 靖(バンブークラフト アーティスト)さんお二人に、鶴山さんとのエピソードをお聞きして来ました。

白石 齊(陶芸家)さんは、
 「私は鶴山先生の晩年、起食を共の数年間では有りましたが、一緒に暮らしました。後、私が上京するにあたって、鶴山先生の私物は全て頂いて、手元に置いて居たのですが、先生が死去されて、それらの遺品は全て土居春琴さんにお返ししました。ところが、23年前に東京より此方へ引越しのおり、文書を整理して居た際に、終戦後間もなく鶴山先生と春子(土居春琴の娘)さんが熱海までの新婚旅行中の絵日記が出て来て、これは大変貴重と、今も大切に手元に置いて居ます。」

弟の、白石 靖さんは、 
 「鶴山さんは、お酒が好きで、お金が入ると酒を買って飲むの繰り返しだった。また、鶴山さんは、御庭焼(江戸時代,趣味のある藩主が城内や邸内に窯を設けて茶器などを焼かせたもの。)の伝承者でもあった。焼き物をするために色見本を山程作っていたし、釉薬の勉強も熱心にしていた。まさに焼き物の探究者だった。」と懐かしそうに教えて下さいました。