爽やか5月のイナバ化粧品店
2018年5月1日のイナバ化粧品店内です。車のナンバーは私たち以外は全て県外ナンバーでした。稲葉浩志さんは全国の多くのファンに支持され続けている偉大な津山人と改めて感じました。「製造元は私」と明るくおどけるママさん、浩志さんに劣らず超人気者です。また浩志さんを見守るご家族も素敵な方達です。「これからは何でも出来る時に悔いを残さないようにぱぁ~っと!」はママさんのお言葉でした。
2018年5月1日のイナバ化粧品店内です。車のナンバーは私たち以外は全て県外ナンバーでした。稲葉浩志さんは全国の多くのファンに支持され続けている偉大な津山人と改めて感じました。「製造元は私」と明るくおどけるママさん、浩志さんに劣らず超人気者です。また浩志さんを見守るご家族も素敵な方達です。「これからは何でも出来る時に悔いを残さないようにぱぁ~っと!」はママさんのお言葉でした。
大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。
2018年3月3日、津山市川崎にある津山東公民館で「津山市公民館講座 演題:士魂商才の実業家 磯野計ー世界のベスト(最良品)を日本へー」と題して、元津山洋学資料館館長の下山純正さんが磯野計の生涯を色々なエピソードを加えてお話してくださいました。
ROUTE178 B'z津山を盛り上げる会(二番街・津山銀天街・元魚町商店街)の皆さんが、津山さくらまつりの一環として企画されておられる楽しそうなイベントを取材させていただきました。なんと、デグチビル側面には看板が設置され、また、「ROUTE178 B'z津山を盛り上げる会(イナバ化粧品店協賛)」の常夜燈が12基設置されました。会長の出口剛三さんは「昨年の津山公演も、その後の、お誕生日おめでとう会や多くのファンの人たちと触れ合えとても感動した。もっと早くにしてあげればよかった!」と反省しきり。夏には、B'z結成30周年記念を企画中だとか。とっても楽しみですね~。(昔の元魚町商店街)
駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)
棟田 博(むねたひろし) ー故郷を愛した人情作家ー
「降るかとみればやみ、やむかと思えば降り、昨夜は危ぶまれたが、今朝は雲も見せぬ快晴である」と書き出しているのが「分隊長の手記」である。これが棟田博のデビューになった。彼が「赤紙」の戦時召集をうけたのは昭和12年、岡山の歩兵十聠隊に入ると第二次補充部隊要員として、北支の赤柴部隊に加わることになっていた。そして同13年5月の徐州会戦のとき、台児荘の戦闘で負傷、戦列を離れた。短い戦場体験であった。棟田は正規の徴兵検査に合格、軍隊生活をおくっていたので伍長になっていた。召集で分隊長であったのはそのためだ。「分隊長の手記」は14年3月号の「大衆文芸」から連載されたが、11月には単行本になって、翌年1月までの僅かな期間に30版を重ねた。すごい人気のデビューになったが、それには次のエピソードがあった。
1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営。加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争と日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。神前扉材は伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。毎朝参拝を欠かしたことはなかった。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。(文:ウィキペディアより)
放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。
浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。
浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。
道家大門(ひろかど)は天保元年(1881、旧暦天保元年11月18日が西暦1831年1月1日にあたる)12月10日津山藩士遠藤浦右衛門正利の四男として生まれた。幼名弥作、のち助十郎、順と名乗った。伯父にあたる同藩津田七太夫文行は藩の料理番を務めていたが、津田家の長男真一郎は学問修行のため廃嫡、次男鉄次郎は早逝したため、従兄弟の大門が養子となって津田家を継いだ。一時期津田弥作儲美と称していたが、津田の本姓が道家であることを知り、文久元年(1861)に道家と改姓した。その後料理番より進み、慶應4年(1868)に御刀番、明治維新後に作事奉行となる。同年藩より国学修行を仰せ付けられ、平田鎮胤(平田篤胤養嗣子)に入門した。