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百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

 百済王(くだらこにしき)は書記などの伝承によると、舒明天皇三年(631)に百済の武王の世子義慈の子、豊璋(ほうしょう)と弾広の兄弟を日本に派遣、友好を誓った。斉明天皇六年(660)に百済は新羅と唐の連合軍に敗れ日本に救援を求めた。豊璋は日本の援助を得て帰国したが百済は滅亡した。弾広はそのため帰国できず日本にとどまり、持統天皇から「百済王」の姓氏をたまわった。この弾広の曽孫に敬福(けいふく)というのがいた。資質にめぐまれ天平十五年(743)には陸奥国守に任じられ、また東大寺大仏の造立で塗金の黄金を献上した話はよく知られている。

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在りし日の百済家

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アルネ津山が出来る前の吹屋町(写真提供:中山須美子さん)     北風邸

 津山の百済家譜によると、敬福二十五代の孫馬之丞道正が、應徳年間(1082~1086)に河内国丹南郡狭山に住し、鋳物職を業としたとある。百済王三松氏系図というものがあり、敬福の子孫が三家に分かれている。このどれかが津山百済家につながると思われるが、津山百済家譜には往昔壊損して系譜は明らかでなく、調べた結果はこの程度だと書いてある。実は津山というより作州の古代史には百済とのかかわりが深い。飛鳥時代に白猪屯倉が美作五郡に置かれ、そのころ百済の王辰爾が来て戸籍をつくった。また備前の六郡をさいて美作国を置く上申をしたのは百済南典であった。
 大坂の牧方市中宮西之町に百済王神社跡と百済寺跡がある。これは天平九年(737)は百済南典が死んだとき、聖武天皇が勅してつくらせたもの、百済南典は従三位で渡来者のなかではじめて高官になった有力者、備前国守のとき美作の分国をきめた人物である。

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吹屋町の釜屋本家跡               手つなぎの金輪(写真提供:中山須美子さん)

 津山初代の馬之丞道正が河内の狭山に来て鋳物職をはじめたころ、河内国丹南鋳物師が、蔵人所で全国鋳物師支配が動きはじめた。なぜ河内が鋳物師の中心になったか。それは「河内鍋」の生産地として京都で名声を得たからといわれる。蔵人所の全国支配は「短冊」を給与して、諸国に散在する鋳物師を組織し、また河内から各地に散った者の統率をした。
 津山百済の初代は又三郎国次で、百済家としては十代目になるが、観応二年(1351)に美作国久米郡長岡郷にやって来た。そこで鋳物をはじめたので「金屋」とよばれるようになった。現在は津山市である。河川沿いの道路改修で丘陵は削られたが、丘の上を掘ると鉄滓が出ていたそうだ。
 なぜ作州に来たのか説明は残っていないが、このころ河内鋳物師が各地に散って適地を求めたといわれ、この金屋付近も吉井川の川砂が鋳物に適し、また古来砂鉄の山地として中国地方は知られていた。作州の砂鉄は赤目といわれて鋳物に適していた。鎌倉時代から室町時代にかけて、鋳物の生産技術も発達した。これを中世和鉄革新と位置づける説もある。

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津山市小田中安国寺にある津山鋳造物最古の梵鐘に百済源次の名があります。(2017年8月10日撮影)

 金屋の百済は十代の国次から二十代の善三郎助実まで二百七十四年間も、ここで鋳物の生産を続けた。十一代の源次家久が津山に現存する多聞寺の梵鐘をつくった。津山百済家の生産物として今も安国寺に生きている。これは永和三年(1377)十一月に苫東郡高倉郷寄松山多聞寺の鐘として鋳造したことが刻まれている。多聞寺がなくなり移動したとき、この鐘だけはその場に埋められていた。それを農夫が発掘、津山市小田中の安国寺で保管し梵鐘として使われている。津山鋳物としての記念物である。この金屋での製造では十八代の太郎左衛門助重が天正四年に中山神社の鰐口を鋳造している。しかし明治維新の神仏分離のとき破壊された。

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火砲砲身 文久2年(1862)百済市良右衛門鋳造 
全長58cm 外径4958cm 口径4.258cm 重さ24.5kg 2ヶ所に下り藤紋あり(写真:津山郷土博物館)

 津山城下町は慶長八年(1603)の森忠政の入封で建築がはじまっていた。元和二年ごろに第一期を終わって、近くの金屋に栄えていた中世の鋳物業を津山城下に移すことにした。はじめ鋳物師町としたが、吹屋町とあらため今日に続いているが、現代は鋳物工場はなくなっている。移転したのは寛永二年六月(1625)のこと、百済二十一代、与兵衛助正この移動を機会に名を市良右衛門と改めた。以後この名を継ぐことになる。また百済家も次々と分家して、吉ケ原、兵庫県平福、あるいは奈良にまで一族はふえている。津山の吹屋町も分家がふえたが、瓜生原屋、富貴屋、吹屋などと業者もふえていた。クジ引きで場所を決めたという話もある。二十二代市良右衛門(助儀)が正徳二年(1712)に屋号を釜屋とした。それまで瓜生原屋が多かったので粉糾混雑するためという。鍋は生活用具として、これ一つで何でも食べものの処理は出来た。ところが釜の出現は利休の言葉を借用すると「釜一つあれば茶の湯はなるものを、数の道具を持つは愚かな」というほど釜は茶の世界を開いた。津山は茶の釜の名物を生んだ土地ではないが、生活用具としての釜の生産地となった。この地方一帯の梵鐘の大半もこの吹屋で製造されている。ただ、戦時供出で古いものはほとんどなくなった。

大砲の鋳造
 ところで市良右衛門を名乗る人物は十名、ここで取り上げた市良右衛門は助順で明治3年3月、五十三歳で死没している。天保十五年三月唐金大砲一挺を松平候から鋳造を命じられて以来、大砲の鋳造に大活躍した。また安政三年には京都より灯籠の注文があり、これを献上して、陸奥大椽に任じられた。津山奉行所より年寄別格を申付かり、二人扶持になるなど百済家でもっとも著名な人物になった。
 鉄砲、大砲は世の中をかえた。大きい鋳物といえば梵鐘だったが、大砲の注文が殺到するようになったのは当然に世の中の変化である。
 幕府は弘化元年に十二か所に守備兵を置き砲台を置く砲場を築いた。同二年にはオランダ、イギリス船が来航、同三年も同様、嘉永二年はアメリカ、イギリスと開港をせまる来航が続く。ロシアのプチャーチン、アメリカのペリーらも来て、あわただしさをみせた。津山への大砲の注文も地元松平関係の二十八門、他藩から十二門、文久三年には大砲鋳造のため江戸に出張をしている。この背景には津山に神伝流を伝えた植原六郎左衛門がいた。彼が水練修行を仰付かったのは天保十五年三月、植原は荻野流砲術を修業していた。嘉永三年に江戸詰めになると共に家中の砲術世話係を命じられた。嘉永四年の秋には佐久間象山の西洋砲術の実技を見学に出かけている。
 ペリーの来航で国防の重要性を感じた幕府は植原に白羽の矢をたてた。彼は幕府の目付に「水軍夜戦」の講議をしている。津山の大砲鋳造所は横山につくり、すぐれた大砲造りをした。それには分家の清次郎と吹屋福島八左衛門が協力している。

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号砲
 この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
 1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
 明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12年~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。(文:大阪城現地説明板より)

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大阪城の刻印石広場にあった美作津山の刻印を偶然見つけた。


 大阪城に百済製の大砲一門がある。これが現存する唯一のものと思うが、文久三年(1863)の製造で大阪天保山砲台にあったものを明治三年から城に移して号砲とし、大正十二、三年まで使われた。(2017年8月11日撮影)

 明治に入って市良右衛門助順の死によって子の勝治郎がついだ。大砲はもう鋳造の必要がなくなり、また梵鐘づくりに専念した。明治五年には高松最上稲荷の青銅吐水龍、同十年木山神社の青銅鳥居、続いて佐伯の本久寺、植月の観音寺、赤坂の西光寺等の梵鐘をつくった記録がある。百済家は七十両、六十両といった献金もして、鎮撫使西園寺公の通過では宿舎の一部も引受けるなど、社会的な活動をしている。
 その子百済市郎も県道改修や郡役所建五百七十年、一つの職業を続けた歴史の誇りは確かだ。

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宮川大橋擬宝珠(明治時代・百済氏作)郷土資料館裏庭

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明治32年(1899)百済市郎作 児島高徳像(郷土資料館前庭)          ↑津山鶴山館内

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アルネ津山が出来る前の吹屋町(写真提供:中山須美子さん)

百済市良右衛門助順略年譜
1816年(文化十三年)百済市良衛門助好の子として生れる。母てい。
1844年(弘化元年)三月、唐金大砲一挺松平侯より鋳造命じられる。同年六月、津山藩士黒田氏より百目玉小砲註文を受く。
1845年(弘化二年)二月、新見藩士大橋巻蔵氏より百目玉二挺註文あり。
1847年(弘化四年)八月、勝南郡長内村長正寺の梵鐘鋳造。
1848年(嘉永元年)四月、田邑村千年寺梵鐘鋳造、同年十一月伊予国今治藩士種橋虎之助氏より銑大砲一挺唐金百目玉小砲一挺註文、同日阿波国徳島元藩士、山口登氏より銑筒一挺、同十一月伊予国今治藩より銑大砲一挺、唐金百目玉小砲一挺、同年十二月に加賀金沢藩より銑筒一挺。
1849年(嘉永二年)二月、備中国松山藩から銑筒一挺、備中新見藩、勝山藩から各一挺の銑筒註文、十二月奉行所より大砲鋳造御用格別骨折に付門松合印御免となる。
1850年(嘉永三年)久米郡宮尾村の医王山等覚寺梵鐘鋳造、同五年松平侯より銑大筒二挺、ホイツツル砲三挺を、同年九月、長門国萩毛利侯より三貫目玉大筒一挺、伊予国松山久松侯より三貫目玉大筒一挺鋳造。
1851年(嘉永四年)十二月、勝北郡堀坂村老松山曽根宮梵鐘鋳造。
1852年(嘉永五年)四月、大庭郡台金屋村薬王寺梵鐘鋳造。
1854年(安政元年)正月 カノン一貫目玉筒一挺、百三十九貫目、五百目玉各一挺、五月ランゲ六貫目玉一挺、九月カノン十二斤、二貫七百目玉一挺の以上六挺を松平侯註文、同年四月足守藩より百目玉筒一挺。
1855年(安政二年)正月勝山三浦侯から加農一貫目玉一挺の注文。
1856年(安政三年)二月、京都より燈篭御用仰付かる。同年六月御会符請収に出立上洛七月に燈篭献上。
1859年(安政六年)郡代所より青銅七百匁目玉大筒六挺、百目玉大筒四挺鋳造。
1860年(万延元年)二月、藩士小須賀氏より百目玉筒一挺註文。
1861年(文久元年)六月、新見関侯より青銅百目玉筒一挺、同年七月藩士小須賀氏と中西氏より青銅百匁目筒一挺宛註文を受ける。同年松平侯より青銅ホーイツル筒二挺鋳造。
1862年(文久二年)八月、藩士藤田氏より青銅百目玉筒一挺註文。
1863年(文久三年)七月、幕府より植原六郎右衛門を経て大砲鋳造の命で江戸へ。
1864年(元治元年)十二月、陸奥大椽に任じられる。
1865年(慶応元年)播磨国乃井郡青銅大砲二挺鋳造。
1866年(慶応二年)武器役所より鋳物師頭扱部屋目付を仰付かり、三ツ組盃をも賜わる。
1868年(明治元年)六月に徳守宮、七月に八頭宮、同宗道宮及び八出天神宮に各神鈴鋳造。
1870年(明治三年)三月死没、五十四歳。
(文:『津山の人物(1)』津山文化協会発行より抜粋)

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アルネ津山が出来る前の吹屋町(写真提供:中山須美子さん)


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吹屋町の現在(2017年3月8日撮影)

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吹屋町の釜屋本家跡(2017年3月8日撮影)