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【津山人】士魂商才の実業家 磯野計(1858-1897)

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 2018年3月3日、津山市川崎にある津山東公民館で「津山市公民館講座 演題:士魂商才の実業家 磯野計ー世界のベスト(最良品)を日本へー」と題して、元津山洋学資料館館長の下山純正さんが磯野計の生涯を色々なエピソードを加えてお話してくださいました。

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↑ 講師の下山純正さん              ↑ 米井源治郎の生家

下山さんの講演は色々なエピソードが盛りだくさんの上お話が上手なので面白く聞かせて頂きました。

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↑ 講演の時配られた資料です。

 磯野計は、津山城下(椿高下)に生まれ、上京して箕作秋坪や麟祥に学びました。三菱の給費留学生としてイギリスで4年間商業実務を研修し、帰国後、三菱勤務を経て明治屋を創業。食料品や雑貨などの直接輸入を行い、香港籍のビール会社ジャパン・ブルワリーの総代理店にもなって、商品の「麒麟ビール」の販売を一手に引き受け、明治屋の基礎を築きました。


幅広く活躍した計ですが、地元にはそんなに長くいたわけではないので、残っているものは僅かな資料しかないそうです。その一つが下記の津山線第四誕生寺川橋梁だそうです。

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英国ダーリントンのクリーブランド ブリッジ & エンジニアリング カンパニーから、津山線用の橋梁を輸入。プレートには H,ISONO & Coと記してあります。

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1897年(明治30)磯野計ハイキン症(肺炎の一種)により12月14日没、39歳でした。

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翌年の1898年(明治31)津山線第四誕生寺川橋梁(福渡・神目間)中国鐵道津山線開通。


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↑ 下山さん講演資料から抜粋した区画図で、赤い所が磯野家のあった所だそうです。

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 津山市林田の大信寺の「磯野氏先祖累代之墓」は兄の善八郎と協力して計が建てたお墓だそうです。磯野奨学資金も、この先祖の地に対する長蔵(娘婿)の気持ちのあらわれでしょう。

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磯野家の墓地                   向かって左が、母、妹、弟のお墓

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1869年(明治2)12月12日、母常が没(享年31歳)、36日後、妹志ほが没(明治3年1月13日享年4歳)、1886年(明治19年9月24)妻福子没と家族縁には薄かったようです。

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磯野家の隣にある太田家の墓も計さんが建てたのだそうです。(太田家は母の実家)

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↑ 祖父の手紙の内容            磯野家の家紋が明治屋(スリー・ピラミッド)の商標

計は墓前で、手紙を読み(母方の祖父が11歳で箕作麟祥の元へ修行に行く計に渡した)感極まり声をあげて泣いたそうです。
「磯野孫児計助ニ与フ」
「修行中にどんな試練があっても油断なく、わずかな時間も無駄にせず、隣灯を借りることがあっても怠ることがあってはなりません。修業を終えて帰郷したならば、すぐに私の墓前に来て拝礼しなさい。その時、修行の程度をみて賞罰を加えます...」


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明治屋のマークは磯野家の家紋からだそうです。    ↑ 磯野計の娘婿の長蔵さん
また、外国の方はMEIJIYAの発音がうまく言えない
のでMEIDI-YAとしたそうです。

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大信寺境内にあるこの記念碑も磯野計が建てたものでしょうか?
(撮影:2018年3月2日・3月3日・3月13日・3月24日)


『作州からみた明治百年』の記事中にも磯野計に関して下記の記事がありました。


磯野計
 明治十七年八月十九日、三菱会社が英国から購入した横浜丸が横浜港に到着した。二千三百五トン。当時の巨船である。これを運航して来たのはことごとく英国の海員であったが、ただ二人だけ日本青年がいた。その一人は会計事務をして来た磯野計である。ロンドン留学から事務をしつつ帰国したのである。

貿易商
 磯野計は日本に帰ると、一応留学の世話になった三菱の神戸出張所取締に就職した。取締といっても神戸港桟橋で荷をあげおろしする現場監督のような仕事であった。月給は六十円もらった。磯野はすでに一つの考えをもっており、三菱にそのまま就職する気はなかった。当時は汽船の客や船員の食料、雑貨を扱う部局を三菱がもっていたが、納入品の全部が外国人の手を通じて行われていたので、これを日本人の手にしたいと考えていた。


 そこで岩崎弥之助を説き、郵船社長の近藤廉平を説き、利権回収の運動をはじめた。とりわけ近藤社長の支援を得て、明治十八年、横浜北中通り四丁目に独立して一商店を設けた。日本郵船会社が出来て間もないころだ。磯野は汽船に食料品を供給する仕事のため、独力で輸入商をはじめた。これが明治屋の発祥である。


 明治屋の活動をみると、明治十九年十月にマニラのラメツとタバコの取り引きを開始した。翌年四月にはサンフランシスコのクック父子と、三輪車の取り引きを、またニューヨークのコンデンスミルク会社からミルクを、さらに五月からはアメリカのヴァージニアのアラン・エンド・ゲータア商会とタバコの取り引きをはじめた。秋にはイギリスのシェツフィルドのハンタア商会と、刃物工具の日本と支那における一手販売権をとるやらサンフランシスコのパシフィック・インク・ファクトリーとインキの取り引きもはじめた。ざっとこんな調子で明治屋は業務を拡大していった。
 このとき、磯野の片腕となったのが、津山市高倉出身の米井源治郎であった。仁木永祐の籾山校で学んだのち上京して慶應義塾を卒業、磯野の父と従弟という関係からここに入り、右腕的な存在となった。


 明治屋はさらに製糖、ゴム、平野水(天然鉱和泉)など次々と事業を手がけたが、何としても中心をなすものに、キリンビールの一手販売がある。ビールは明治五年に、米人コープランドが横浜の天沼で最初の醸造をはじめたといわれるが、同じ五年大阪の錦商桜井屋というところで渋谷ビールというものが出来ている。これも米人ヒクナツ・フルストの指導によるといわれるが、このほうは十四年に工場を閉鎖した。コープランドは明治八年、甲府に招かれみ三つ鱗ビールというのをつくり出したがこれも収支がつぐなわず十五年にやめている。コープランドは自分の事業を拡大するため、三菱系の人たちの援助を申し入れ明治十八年にジャパン・ブリュワリー・コンパニーを設立したが、販売にこまり明治屋に一手専売権をゆだねた。明治二十一年のことである。


 それから昭和二年まで、明治屋はキリンビールの一手販売を続けた。それだけに宣伝隊を全国にくり出したり、明治二十三年の内国勧業博覧会のときは、当時東京新橋の売れっ子芸者「ぼんた」が、ウチワを使っている美人ポスターをつくり全国にくばった。芸者をポスターに使った最初といわれる。少し後年(四十一年)になるが、明治屋はビールの配達用にスコットランドのアーガイル社製自動車をイギリスから購入。ビールビンのかたちをしたボデーが人気をよんだ。この自動車がナンバー一番。警笛がよかったので消防署が寄付をを望んだので渡している。タイヤは空気の入らないゴムのソリッドであった。


 明治二十七、八年の日清戦争が終わると、わが国の貿易も変化がおきた。磯野は二十八年の夏から欧米の視察に出て機械、鉄材の輸入を必要と考え、三十年の一月に明治屋のほかに新しく磯野商会を創設した。鉄道建設が盛んなころで、ちょうど北越鉄道の建設にレールを納入することになったが、競争入札で新しい磯野商会が落札したのは、レールの運搬を横浜を経て行なうのが例であったものを、直接に直江津へ船をつける計算で入札に勝ったのである。常にさきを読んで明治経済史に新しいエネルギーを注入し続けた。


 しかし、三十年の十二月、急性肺炎のため突如として他界した。三十九歳の若さでまことに惜しまれる短い生涯であった。そこで片腕となっていた米井源治郎らは、一人娘の菊子に松本長蔵を迎えて養嗣子として明治屋をつがした。これが津山に奨学資金をおくった磯野長蔵である。そして磯野商会を米井商会として分離、米井個人の経営として、明治屋を磯野、米井の合名会社にした。店員を加えて株式会社にしたのは四十一年のことであった。(文:『作州からみた明治百年』津山朝日新聞社発行より)