2014年4月19日加茂の金刀比羅宮の展望台
・神を祭祀せば=悪い病いのたたりなくなると言う。(加茂の金刀比羅宮)
・神を祭祀せば=農耕、養蚕、織物を治め一番大切な祖神がある。
・神を祭祀せば=心おちつき事に当たりなしとげらるるという。末社、荒神社は安産の神、稲荷神社に商法の繁昌、木山神社山の神、末社多くの神々を安置す。広く県外からも参拝し祈願者も多い。(2014.4.19取材)
・神を祭祀せば=悪い病いのたたりなくなると言う。(加茂の金刀比羅宮)
・神を祭祀せば=農耕、養蚕、織物を治め一番大切な祖神がある。
・神を祭祀せば=心おちつき事に当たりなしとげらるるという。末社、荒神社は安産の神、稲荷神社に商法の繁昌、木山神社山の神、末社多くの神々を安置す。広く県外からも参拝し祈願者も多い。(2014.4.19取材)
田神社(たじんじゃ)由緒
当社は貞観年中(859~877)に行教法師と田口信濃介統範が豊前宇佐八幡宮の御神霊を勧請して創建したと伝えられている。応神天皇、神功皇后を祭神とする。
もと上采に所在したが、大正7年(1918)に田神社を主祭として天剣神社、千家里神社、天津彦神社を合祀して一村一社とした際に、現在の鎮座地 金粟(こんぞく)に移転した。2014年1月12日取材
建立者の札はあるが、このお寺はまだ説明がない。
(2013.6.14取材)
三鬼の最後の弟子 白石 哲さん、俳号は白石不舎(しらいし ふしゃ)
大正13年(1924)、津山市生まれ。西東三鬼に師事。遺言により津山に西東三鬼之墓を造立す。以後俳壇と無縁も上京後三橋敏雄らと交遊、俳諧滞らず、昭和61年帰郷と共に、西東三鬼顕彰を志す。「綱」主宰。句集「作州」。西東三鬼賞委員会副委員長。
平成24年2月27日、逝去。
千光寺の墓地には珍しい墓碑が二基ある。その一つは、槍の形をした鉄製の墓碑で、"宗越作藩舊臣本多監物重威貫一虚空居士"と戒名が刻まれ、慶応3年(1867)に鋳物師百済助順が建てたと刻まれている。
いま一つは、酒を入れる角樽の形をした墓石で、水鉢が盃形、花筒が徳利形(現在、花筒は破損し竹になっている)の立派な墓碑である。夫婦墓で、樽形の墓石に"桃林樹仙信士"(宝暦3年3月15日没)、"空山恵光信女"(宝暦3年8月19日没)と戒名が刻まれ、台石にその子息と思われる者が、建碑の趣旨を次のように刻んでいる。
当社の創建は不詳であるが、正平16年(1361)11月辛丑、山名時氏が吉野郡田殿村鞍掛城主美濃守赤松氏の支族佐用貞久、有元佐久等を攻め降伏させた。その際、当社に戦勝祈願の報恩として鳥居、額面を奉納した。
一級河川梶並川が神社前面(北側)で大きく歪曲し、水衝部となっていることから、度々冠水により田畑の被害があったと考えられ、氏子の治水祈願から主祭神である瀬織津姫命(セオリツヒメノミコト)を祀ったものと思われる。
大正10年7月20日村社列格。(岡山県神社庁HPより)
宮城野善平の墓すぐ傍に昔からある古い道がある。そこを少し上ると大日如来の石碑とともに、六地蔵がある。ここは散らばっていた石碑や六地蔵を集めた処ではないかとのことでした。そこを更に登っていくと堀内六郎衛門の墓へと続く道。2013.12.11取材
美作地方は幕末から昭和の初め頃まで、奉納や勧進の草相撲が盛んであった。『作州東部大相撲帳』によると、高倉地区の力士は明治21年から明治末年に29名と記されており、多くの力士が出て活躍していた。頭取(相撲の指導者)宮城野善平の門弟たちが、その功績をたたえ墓碑を建立したものである。(文:高倉の歴史と文化財より)
本社の創立年代は不詳であるが、口碑によれば備前美作の両国造となった。和気氏の祖が、この地に居住し、地名を美作国佐良の荘(旧久米の佐良山)と云えられる。和気氏祖神を当地に勧請したのが佐良神社である。
成道寺(浄土宗)さんの玄関先にロウバイの花が咲いていると聞き、お尋ねしてみました。ここのロウバイは中が赤い色をしていて可愛いです。住職にお聞きするまでは、赤い色のロウバイがあるとは知りませんでした。成道寺の門は、市指定文化財になっています。また、西東三鬼句墓碑でも有名ですね。2014年1月25日撮影