津山郷土博物館(山下)
耐震改修工事に伴い、平成32年4月までの予定で、現在休館中です。
津山郷土資料館 1)行政/役場・警察署 2)津山市山下92 3)昭和8(1933)年 4)津山市庁舎
昭和4(1929)年2月の合併当初、津山市の庁舎は、明治7(1874)年に小学校の校舎として建てられた元津山町役場を使用していました。その後、新庁舎建設の気運が高まり、昭和8年7月、津山城跡の南麓に、地上3階、地下1階建ての鉄筋コンクリート造として竣工しました。
耐震改修工事に伴い、平成32年4月までの予定で、現在休館中です。
津山郷土資料館 1)行政/役場・警察署 2)津山市山下92 3)昭和8(1933)年 4)津山市庁舎
昭和4(1929)年2月の合併当初、津山市の庁舎は、明治7(1874)年に小学校の校舎として建てられた元津山町役場を使用していました。その後、新庁舎建設の気運が高まり、昭和8年7月、津山城跡の南麓に、地上3階、地下1階建ての鉄筋コンクリート造として竣工しました。
備中櫓は天守台の南東、本丸南面に突出した石垣上に立地する2階建ての櫓です。
高さ約13メートル、幅約24メートル、奥行き約8メートルで、延べ面積は約288平方メートルです。
60を数える津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
構造
備中櫓は、木造一部2階建てで屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒廻りも含めて白漆喰塗りです。通常、櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが、この備中櫓の内部は全室畳敷きという特徴を持っています。
これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。
津山城
津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。
2018年1月2日の美しい夕日です。
久米の佐良山については作陽誌に
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。
お城の井戸
雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。
全国に知られた富豪「蔵合家」
二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。
津山城(鶴山公園)に松尾芭蕉の句碑がある。津山と松尾芭蕉の縁を調べてみました。
全国に知られた富豪で俳人でもあった蔵合の五代目孫左衛門直良は、元禄(1688-)から享保(1716-1734)年間頃、全盛を誇った蔵合家当主。西鶴が『日本永代蔵』にえがいたのも直良の時代と思われるが、芭蕉とも交友を結び俳人でもあった富豪の面影をしのばす。俳号は「推柳」という。句集『夢三年』(寛政12年、岡山の佐々木松雨が編集)の中に、芭蕉の友人・山口素堂の一文をのせている。その中に「津山の住、推柳子のもとへ赤木氏より、わが友芭蕉の翁が絵かきて自ら賛せるを送らせー」とあり、芭蕉と蔵合直良推柳の交友を窺わせる。芭蕉が送った自画賛については享保元年(1716)に、やはり芭蕉門の俳人・月空庵露川が門人の燕説を供に津山を訪れた時の紀行『西国曲』に次のように記されているという。紀行には蔵合の繁栄ぶりを示す記事もあり、西鶴の『日本永代蔵』をさらに裏付ける。(2015年4月21日撮影)
皆様、明けましておめでとうございます。昨年中はいろいろとお世話になり、心よりお礼申し上げます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
津山の春の風物詩、「津山さくらまつり」が2017年4月1日より市内各所で開催されますした。今年は4月1日~15日.まで開催され、楽しいイベントが盛りだくさんでした。郷土芸能ステージやお茶席、グルメイベントなど期間中は様々な催しがあり、取材した4月11日・12日はたくさんのお客様が来られていました。さくらの花も満開。また、ことしは桜の状態が良いため、4月16日まで津山さくらまつりが延長されました。