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取材記事内を検索ワード「門」で検索した結果,738件の記事が見つかりました。

三日月藩乃井野陣屋物見櫓

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 建物は旧陣屋で現存する唯一の建築遺構です。(三日月町指定有形文化財建造物平成14年指定)
 三日月藩の創建当初には無かったことがわかっていますが、建物の創建年代を明確にする史料は発見されていません。江戸時代後期(寛政三年1791)の古文書に「御物見」の記述がありますので、1700年代の後半には建立されていたと考えられています。
 櫓(矢倉)とは、敵の襲来を見知したり、矢を射たりして防御性を高める軍事目的の建物でした。
しかし、この建物は、堀川に大きな出格子を付け、二階には床を設けた書院的な造りで、藩の接待などに使われていました。また、二階からは眼下の武家屋敷や街道が見渡せる絶好の位置で、堀端での武芸の試合を藩主が謁見した記録も残っており、江戸後半期の平和な時代の性格が良く表れています。
 明治17年に三日月町の広業小学校に移築され、明治44年に村役場や公民館として再び移築されました。二度の移築にもかかわらず、屋根瓦や建物の一階の柱を除いた主要な構造材、出格子、階段など江戸時代の部材がよく残っていました。この建物は、これらの部材を解体し、現在の位置に復元したものです。(平成14年3月復元工事完成)(文:現地案内板より転載)(佐用町許可済み)

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天台宗 弘誓山 観音寺(勝央町)

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 比叡山延暦寺を本山とする当寺は、千百余年の歴史をもち、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作、聖観世音菩薩を御本尊として安置していますところから、弘誓山 観音寺といいます。
《寺暦》
 平安時代の天安年間(857~859)、比叡山第三祖慈覚大師(じかくだいし)によって、間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、天文十三年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。(文:天台宗 弘誓山 観音寺の案内から抜粋)(2023年11月29日撮影)

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2024 徳守神社「大節分祭」

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 2024年2月3日に行われた徳守神社「大節分祭」が大勢の人出で賑わっていました。
午後3時半から行われた第一部の豆まきでは、厄払いを受けた男女が特設舞台にあがり、舞台の上から福豆や菓子等をまくと、みんな我先にと手を伸ばして福豆やお菓子などをキャッチしていました。第二部の午後6時半からは節分祭及び追儺神事があり、その後豆まきが行われました。
※追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事のこと。

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三日月藩租「森長俊の人となり」

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 三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。


 三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
 長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
 父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。

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三日月藩乃井野陣屋表門(佐用町)

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 三日月藩は元禄10年(1697)、津山藩森家の改易に伴い、初代森長俊が佐用・揖保・宍粟郡の内15,000石の領地を拝領し、乃井野に陣屋を構えたことに始まり、明治4年(1871)の廃藩置県まで、9代175年間続きました。
 乃井野には郭内と呼ばれる家臣たちの居住地が広がり、城郭でいう本丸、二の丸、三の丸に相当する多重の構造を持っています。そして、今もその町割が良く残っています。複数の門の内、表門は、お城の大手門にあたる重要な門で、初期には、惣門と呼ばれました。約70年後(1773)に再建されたのが現在の表門で、脇には番所があり、通行者は厳しく監視されました。
 明治9年(1876)、陣屋の土地建物群は払下げられ、(「縣廳乙號布達綴」)、表門は西法寺(現・たつの市新宮町鍛冶屋)に移築されたようです。これを、平成28年に町へ寄附を受け、平成29年度に現位置近くに移築復元を行いました。
 2度の移築を経て故地へ戻ってきたこの門は、物見櫓とともに2棟しかない三日月藩の現存建築物です。(文:現地説明版より転載)(2023年5月18日撮影)

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津山商工会議所女性会秋の津山城(鶴山公園)散策

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 10月30日(月)親睦移動委員会 秋の津山城散策
 親睦委員 10 名が参加し、「津山観光ボランティアガイドの会」会長 得能良平氏の案内の元に、曇ひとつない秋晴れの津山城址を散策しました。得能氏の心のこもった熱いお話は、壮大な石垣の上にそびえ立つ津山城を想像させてくれ、改めて津山って凄い、もっと知りたいと思った一日でした。(文:津山商工会議所女性会)


「備中櫓」名前の由来
 初代藩主・森忠政は、鳥取藩主・池田備中守長幸(ながよし)に娘・於松を嫁がせました。その娘婿である長幸が津山城を訪れるのを機に建てられたのが備中櫓である。備中守から名付けられました。地名とは関係ありません。備中櫓は人物にちなんで命名された珍しい櫓なのです。発掘調査中、備中櫓の周辺で「揚羽蝶」文様の小さな瓦が出土しています。池田家と館駅のある瓦のようです。忠政は娘婿にちなんだ櫓を建てるにあたって、棟に池田家の由来の「揚羽蝶」文様の瓦を作って使用したようです。(文:現地案内より)(2023年10月30日撮影)(2012年・2017年取材)

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2023「津山城もみじまつり」が賑やかです。

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 2023年11月18日~26日まで「津山城もみじまつり」が開催されています。(2023年11月19日撮影)
今年は、「なりきり忍者体験」や「甲冑着付け体験」、「ちびっこ広場」、「チャンバラ合戦」、「レーザー手裏剣」などなど、ちびっこが楽しめるイベントが盛りだくさんです。それに、ステージイベントも大人気でした。また、25日・26日はジャズオーケストラやマジックショー、バンド演奏、津山武道学園、岡山戦国武将隊、姫路忍者隊、のど自慢などのステージイベントも開催されます。丁度、紅葉も見頃です。是非おいでくださいね。

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「真言宗立教開宗1200年慶讃記念法会」に東寺参拝

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 津山市河面にある「墨池山 清瀧寺」の本山である東寺で、100年に一度の真言宗立教開宗1200年の慶讃大法会が(2023年10月8日~14日)あり、10月8日に檀家の皆さんと参拝してきました。初めて参加する大法会は、厳かであり、華やかでもありました。この法要で清瀧寺の滋澤弘典住職が、開白(かいびゃく)の座で誦経導師(じゅきょうどうし)という大役を務められました。し~んと静まり返った金堂の境内に弘典住職の良く通る声が響き渡っていました。
 また、住職の次女さんが、昨年、東寺伝法学院で僧侶となるべく、一年間の修行をされたと聞きました。そして、同期に修行された尼僧さんが、東寺諸堂の案内役を担当してくださいました。尼僧さんの案内で親しみが増しました。
 娘さんは、「お父さんに尊敬の念が増し、高齢者にも若い人にも子ども達にもいろいろな人に寄り添えるお坊さんになりたい。」とのことでした。僧侶としての活躍を期待しています。

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2023 田熊八幡の秋祭り

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 2023年11月5日に津山市田熊にある田熊八幡宮の秋祭りがありました。例年は11月3日の祝日にあったのですが、今年からは11月5日となり、津山地域の秋祭りも今日が最終日ではないでしょうか?
 当日はお天気も良くなり、町内は子どもたちの「わっしょい!わっしょい!」と言う可愛い元気の良い声が響いていました。子どもたちの良い思い出となり、地域の行事が末永く続いてほしいものです。
2011年の田熊八幡宮の秋祭りの様子です。
 この田熊八幡宮は、「田熊八幡神社重要書綴」によれば、明治4年(1871)の建立と推測され、大工の野上米右衛門らによって建築されたました。また境内にある"農村歌舞伎の回り舞台"は、美作地域の農村歌舞伎芝居が非常に盛んであったことを物語る貴重な民俗資料となっています。

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2023 新野まつり(岡山県重要無形民俗文化財)

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 天候にも恵まれ、大勢の氏子たちに迎えられて稲塚野の神事場に7体の神輿が稲塚野に勢ぞろいし「新野まつり」が2023年11月3日(土・祝)に執り行われました。
 作州三大まつりの一つに数えられる「新野まつり」は、新野山形の八幡宮を親神様として二松・天穂日・天津・天満神社の氏子たちが御輿をかつぎ、稲塚野の神事場に集まって豊穣の秋を祝い、新野郷すべての人々が喜びを確かめあい励ましあう一郷一所の大祭です。各神社の社伝は古く伝承行事もさまざまですが、まつりの形態が今日のように郷土団結の様子を整えてきたのはおよそ室町期の頃であると推定されています。(2009年の新野まつり)(2012年の新野まつり)(2018年の様子

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