三日月藩租「森長俊の人となり」

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 三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。


 三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
 長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
 父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。

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高蔵寺山門                   境内 正面が観音堂

 高蔵寺は森家が三日月に入封すると菩提寺となり、霊廟や三重塔が建てられて隆盛しました。また、後醍醐天皇が隠岐に配流された際に、再起の戦勝祈願を行っています。本尊は行基作とされる千手観音像です。

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大師堂                     森家御霊堂
(高蔵寺のご住職のご厚意で、森家御霊堂の中を撮影させていただきました。)

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中央に三日月藩祖森長俊の木造を安置し、歴代藩主や一族の位牌が置かれています。

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 長俊はまた諸候とも心やすかったが、とくに羽州本庄城主六郷阿波守と仲が良く、まるで親兄弟のようによく往来し、隠居後は、その浅草の邸をたづねて、滞在すること四、五日、夫人も室内に入れて枕をならべて語り、入浴もともにし、親交が深く、また多く諸侯ともよく会合をしました。
 この長俊はまた風流の心が深く、草木鳥獣を好み、下男の助五郎にいいつけてこれを管理させましたが、庭園には木賊(とくさ)や花葵が最も多く、また牡丹を植え、谷の水をひいて紅葉川と名づけたりしました。
 また山城の井手の玉水の蛙を捕らえて、乃井野や江戸大崎の庭園の池に放ちましたが、その鳴き声は鈴のようで、声が高く、普通の蛙とちがっていて、井手の蛙が鳴くと、ほかの蛙が鳴きやめたといわれます。
 それから長俊はまた和歌を好み、自分が作州の生まれであったので、故郷を思うごとに、『古今集』にある「皿山の歌」をよく口にしました。
 美作や、久米の佐良山さらさらに、我が名はたえじ、万代までも。
また時には、『伊勢物語』中の、「宇津山の歌」を歌って情をなぐさめたともいわれます。
 駿河なる、宇津の山辺の現(うつつ)にも、夢にも人に、あわずなりけり。

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河合斉宮康正(家老)              可児弥五左衛門正武(家老)

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客殿(方丈)                  墓所から見た境内

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三日月藩第五代藩主 森快温(はやあつ)の墓   快温院殿野州刺史鷲峯宗雲大居士

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森勝次郎墓(四代俊韶の長子、快温の義兄)の墓

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2代藩主森長記の長男森可敦(よしとし)の墓「盛徳院可敦乗雲大居士」病弱を理由に廃嫡

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森家子女の墓所「御廟所」

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歴代住職の墓所


三日月藩祖 森長俊

 三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。生母は湯浅丹後の女で、名は偕、のち継光院とよばれました。
 幼名を松之助といい、父長継は、家臣の橋本善左衛門と阿部清左衛門の二人をお伝役(おもり)につけました。
 そして寛文五年(1665)年十七才で四代将軍家綱に拝謁、延宝二年(1674)父長継が六十五才で隠居して兄の伯耆守長武が家督を継いだ翌延宝三年(1675)十二月、二十七才で従五位下対馬守に任ぜられ、その翌延宝四年(1676)四月、長武の願いで、その領地中、作州勝田北郡三十一か村一万五千石が長俊に与えられました。この時長俊二十八才、これを分知といい、その屋敷は、津山城内、薬研堀の東北にありました。
 この長俊が、正式に将軍から、「美作国勝田北郡の内三十一ヶ村高一万五千石宛行ハシム、全ク領知ス可キ者也」という官命の封地印章(これには将軍の朱印があるので御朱印といいます。それに対し、大名の印は黒印といいます。)を受けたのは、貞享元年(1684)十月二十一、分知後八年、長俊三十六才の時で、これで公式に大名となり、諸侯の列に加わることになりました。
 この時長俊は、作州にいましたので、とりあえず江戸にあった松平内蔵允康忠が代ってお礼を言上、さらに、老臣の可児藤兵衛が使者となって江戸に行き改めてお礼をいいました。
 ついで同年十二月十三日、長俊は、丹後宮津の藩主、永井信濃守尚長の女をめとりましたが、この時輿を受けたのも老臣可児藤兵衛で、同じく老臣の武田斉宮(いつき)が、貝桶(女子の什器)受取りの役をしました。
 貞享三年(1686)、津山の森の本家では、三代伯耆守長武が隠居して、第四代美作代長成が相続しましたが、乃井野の竹田家に、元禄二年(1689)長俊四十一才の時、父の長継が、長俊の第二家老武田斉宮と、用人の江場平内の両人にあてた、三ヶ条の党の「長継公書」が、軸にして大切に保存されています。
 そしてそれによりますと、武田江場両人に、諸事万端、可児弥五左衛門と相談し、三人、大事だけでなく小事といえども行なうよう申し渡しをしています。
 その後元禄十年(1697)六月二十日津山の本家四代美作守長成の江戸での卒去、七月四日の急養子式部衆利の上府途中の発狂、八月二日の家名断絶、つづいて十月十九日の移封命令と多事がつづき、こうして三日月に移ることになった長俊は、館を乃井野に営むことにし、家臣に藩士の屋敷どりをさせ、日岡八幡宮を鎮守とし、済露山高蔵寺を香華院としました。
 しかし長俊は、同年鍛治橋門の警護を命ぜられて十月から翌三月まで勤め、翌々十二年(1699)三月にはまた、仙洞使清閑寺中納言の饗応にあたり、帰国の暇がなく、やっと四月になって暇を乞い、六月十四日、五十一才ではじめて乃井野に国入りしました。
 その後十六年、長俊は、正徳五年(1715)七月、六十五才で、家督を嫡子宮内安芸守長記(ながのり)にゆづり、江戸で隠居して快翁となのりました。
 長俊がなくなったのは、享保二十年(1735)六月四日で、江戸の大崎邸で病死しました。時に年八十七才の長寿で、「長俊院殿前対州刺史快翁日好大居士」と謚号、嫡子長記四十九才、嫡孫左京可敦二十才、同じく俊春十才、高蔵寺の森家御霊屋上段中央に木像が祭られています。
 長俊は、外観内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。


そのころの森家の祭事

 長俊のころの森家の祭事には、いろいろ独特のものがあります。
 まず正月の十九日に、「鎧甲の賀儀(くそのしゅうぎ)」というのをしました。
 これは藩主の武具を飾り、武運長久を祈る儀式で、鶴山以来の恒例でした。長俊の武具は鎧は黒色威(おどし)、陣刀は兼吉、旗は白の練絹に十字の紋をつけ、馬印は金色の三蓋傘(がい)でした。
 つぎ九月十九日は作州鶴山徳守神社の祭日で、長俊、長記の生土神(うぶすな)として祭事をしました。
 また歳末の十二月十九日は邸宅の煤掃(すすはらい)の日で、その日には「豆屑粥(きらずがゆ)」を煮るのを恒例にしました。これは昔、津山藩初代の美作守忠政の子右近太夫忠広が気が荒く、たびたび家来を手にかけました。それで忠広の母がこれを憂えて、十二月十九日の煤掃の日に、これを作って皆に与え、まじないにしたのがおこりで、「豆屑(きらず)」は「不殺(きらず)」で、皆はよくその訓を守り、それからこの粥がはじまったといわれています。
 さらに森家独特の祭事にいま一つ鎮家祭(やぎとう)というのがあって、これは、正月、五月、九月の十六日に、僧を迎えて読経をし、先祖の供養をしました。
 この日は日蓮上人の忌日で長俊夫人の浄心院が法華宗の信者であったので、この日を祭日にし、江戸と乃井野で祭りが行われました。


長俊の夫人 浄心院

 長俊の前に迎えた正室の夫人は、早くに離縁となり、その後家臣の岡六左衛門の姉の布宇(ふう)というのが長俊に仕えて妾となり、その間に二子が生まれました。
 長子が六松で、のちに宮内と名を改め、これが二代藩主安芸守長記となり、次男の熊次郎は、のち民部と名のり、長俊の弟の新見庵主関備前守長治の養子となり、これものち関但馬守長広となりました。
 この人は容姿が美しく、それにたいへん慎み深くて、元禄十年(1697)の鶴山国徐の際、十一才の六松、四才の熊次郎の二人を連れて、長俊の母継光院七十一才に従って江戸の大崎邸に移りましたが、邸から外に出る時は、かならず継光院のお伝役の小川というのをお供にして自分を慎しみ。それで家臣は皆この人を良婦人として敬いました。
 しかし、この人は体が弱く、いつも病気がちで、それでそのためか、江戸本庄猿江の法華宗慈眼寺の住職日了上人に帰依し、法華宗を信仰、長俊はよくこの上人を邸に招いて法話を聞きました。
 この人は、その後伊豆の熱海にも入湯すること三、四回、六十余で長俊よりさきになくなり、浄心院と謚名され、さらに子の長記によって追贈されて夫人となりました。
 上人は作州の産で、夫人の死後長俊に従って乃井野に移り、田此の山腹に法華庵を作って住みました。
 これがいまの向陽庵の前身で、そのころはいまの庵の上の畑のところにあり、建物も大きく、好要院といっていました。上人は、のちに入寂、ここに葬られ、いまももとの庵のところに墓があります。
(文:兵庫県佐用郡三日月町発行『三日月町史 第5巻人物』より転載)(2024年1月17日撮影)