
定兼宅のしだれ桜(勝央町)

天台宗 弘誓山 観音寺(勝央町)

2022つながる「出雲街道」を歩こう会(最終回)

東美作路名木百選「酒本家のムクノキ」と「髙仁姫宮の碑」(勝央町)

比叡山延暦寺を本山とする当寺は、千百余年の歴史をもち、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作、聖観世音菩薩を御本尊として安置していますところから、弘誓山 観音寺といいます。
《寺暦》
平安時代の天安年間(857~859)、比叡山第三祖慈覚大師(じかくだいし)によって、間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、天文十三年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。(文:天台宗 弘誓山 観音寺の案内から抜粋)(2023年11月29日撮影)
弁天堂
宝永六年(1709)に創建され、安永六年と昭和四十八年に改修される。
中門 文政九年(1826)に再建される。
仁王門・鐘楼
寛政四年(1792)に再建される。仁王像の由緒は不詳なるも、「間山高福寺門の仁王像を移した」との説がある。
建物は町文化財に指定されている。
お庭の手水鉢に浮かべられた菊の花が可愛い。
内仏殿・庫裏
本堂と同期に再建され、修復されながら現在に至っている。内仏殿には、阿弥陀如来・知者大師・伝教大師が安置されている。
寺盛の面影を偲ぶ次の御詠歌が、今に伝えられている。
『経塚のしるしの松の夕嵐絶えぬ御法の声かとぞ聞く』
本寺が美作観音霊場三十三ヶ所第五番となっていることは、かかる寺歴からもうかがわれる。
現在の地(植月東)には、慶長五年(1600)、先師実観の遺志を継いだ僧円慶によって移転築造された。以来円慶を中興開山の第一世として、住職三十世、四百年近くに及んでいる。
作州の名僧として誉れ高い泰禅は、本寺第十一世住職であり、隠居後は、長尾山金光坊をはじめ、多くの寺蹟を遺している。本寺には泰禅が備えた大般若経六百巻や、泰禅木像・爪髪塔がある。
また、本寺で植月小学校が明治八年に開校され、同十四年まで仮校舎となっていた。その頃、後に世界的労働運動指導者として活躍した片山潜も教鞭をとっていた。
お庭が美しく手入れされています。
本堂への通路に展示してあります。
曼荼羅 経机
本堂の模型 本堂
本堂
当初、裏山の古墳台上に建てられたが、寛文年間の初めに焼失した。四世円耀は、火災から本尊聖観世音菩薩の尊像を守り、寛文六年(1666)同地に再建した。
その後、明和元年から安永四年(1764~1775)にかけ、十世泰応によって、古墳台上より現在の地に移築された。建物は概ね三百年を経ており、本尊をはじめ八仏像が安置されている。
本尊聖観世音菩薩
本尊をはじめ八仏像が安置されている。 虚空蔵大菩薩
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)十六羅漢の一仏と称され、自分のからだで病んでいるところと同じところを撫でて祈願する除病の撫で仏様です。
天井
阿弥陀堂
寛永八年(1631)、天台伝教二大師像を安置する祖師堂として創建されたが、寛文二年に永昌寺の本尊阿弥陀如来と十王尊等の諸仏を併置したことから、阿弥陀堂と呼ばれている。
手入れされた庭が美しい。
町指定文化財 植月寺山古墳(観音寺古墳)
植月寺山古墳は、美野平野を南に一望できる丘陵の頂上に立地する前方後方墳である。古墳の規模は全長約90mを測り、後方部は北裾部で一辺が約36m、墳長平坦部の一辺が11mをはかり、高さは4.5mである。前方部は長さ47m、前方部推定幅35m、高さ1.5mを測る。後方部は前方部との比高3mと高く、また前方部はゆるく撥形に開く形状を呈する。内部主体については不明であり、明瞭な盗掘痕も認められない。
また外部施設については人頭大の葺石が認められる。現在までに出土遺物は無く、埴輪なども認められていない。これらの特徴から古墳時代前期の築造と考えられる。
本墳は、美作最大規模の古墳であり、実野平野周辺に位置する美野中塚古墳、美野高塚古墳などの前方後方墳とともにこの地域を治めた首長の墓と考えられ、美作を代表する重要な古墳の一つである。平成15年3月 勝央町教育委員会(文:現地案内板より)(2023年12月27日撮影)