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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。

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新見御殿町まち歩き【2】

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新見藩の歴史
 このまちは江戸時代元禄10年(1697年)に初代新見藩主関長治侯によってつくられたまちです。新見藩は1万8千石です。元禄時代はすでにお城は造れない時代でしたので、御殿(官邸)を建て、そこで政務を執られました。このことによりこの地区を新見御殿町と言っています。
 関家と森家の本国は美濃です。両家は濃い姻戚関係にあり、共に織田信長に仕えておりました。天正10年、本能寺で織田信長に最後まで従って戦死した森蘭丸、坊丸、力丸の一番末の弟が千丸で、千丸だけが幼くて美濃に残っておりました。その後、千丸(森忠政)は関ヶ原の戦いで功を認められ、徳川幕府から津山藩18万6千石を賜りました。この森忠政侯が津山藩森家の藩祖です。その時、関家も津山へ移りました。津山藩森家の2代目のお殿様は関家の長男(長継)で、長継侯の子、長治侯は逆に関長政侯の養子となり、作州津山藩の中に1万8千石の領地をもらって大名となりました。森家5代目衆利侯が急死し、跡継ぎが無かったのでお家は断絶。森家は分かれて播州三日月城と播州赤穂城へ移らなければならなくなり、それに伴って関家も津山から新開地の新見へ移封されることになりました。元禄10年のことです。こうして新見藩が誕生したのです。
 その後、新見藩関家は明治まで9代続き、現在は第13代末裔の関勝氏は埼玉県におられます。

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新見御殿町まち歩き【1】

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2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
 新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
 当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。

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夜泣き地蔵(西吉田)

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 地蔵の前に3っの石塔があり、左の自然石には、正面に南無阿彌陀仏、享保11年(1726)年○月とあり、徳川吉宗の時代に建てられたと思います。右の石碑は、正面に奉納大乘妙典六十六部、右に、文化6年(1806年)2月とあります。六十六部とは、虚無僧のことで行者です、この行者が、地蔵を寄進したのではないかと推察できます。
昔からの言い伝えによると、後醍醐天皇が、この地を通られた時、夜泣きする赤ん坊の泣き声を耳にし、地蔵を作って祀るように、住人に伝えたのがきっかけで作られたと言われています。【津山朝日新聞社より】(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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ママと金刀比羅宮・サムハラ神社・福力荒神様へ

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 昨年のお礼と今年のみんなの幸せを願って、金刀比羅宮とサムハラ神社にお参りして来ました。サムハラ様にお参りする途中の車内でオリンピックのフィギアスケート、羽生選手の演技が始まったので「車を止めてテレビを観る?」というとママは「私がテレビを見ると負けるかもしれないから見たくない。」「えっ!ママもそう思うの?私もそう思うわ~。」と大笑い。ほどなくして金刀比羅宮に到着。車を降りて金刀比羅宮とサムハラ神社にお参りして来ました。ちなみにサムハラ神社から車へ戻ると羽生選手はみごと1位でした。ママ、大喜び!その後、気を良くして旧暦のお正月にいつもお参りする福力荒神様へお参りしてきました。(2018年2月17日撮影)

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戸島神社(戸島)

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戸島神社 旧村社 
由緒沿革 正徳年中に村内に疫病が発生のため、大和三輪の社に参詣して、悪疫退散を祈願し、御分霊を奉還して、村内の大神山に勧請した。寛文六年国主森長継公が崇敬し、村内の有本山に社地を移し、社殿を改築した。貞享三年国主森長武公が、村内沢昌蒲山に社殿を建立した。元禄六年森長成公が、現在の国司に社地を替えた。明治六年村社に列格した。大正六年十一月十三日神鐉幣帛料供進神社に指定さられた。主祭神 大己貴命 伊弉諾尊 / 主要建物 本殿 幣殿 拝殿 神門 社務所 膳舎 神輿庫 / 摂末社 御先社 天神社 稲荷社 荒神社 若神(文:『苫田郡誌』)(2017年8月4日撮影)

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八幡神社(津山市日上)

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 由緒 本神社は弘安4年(1281)、郷士三樹左馬助が元弘の役に従軍の時、宇佐八幡宮に詣で武運長久を祈り、帰郷の際、同神社の御分霊を奉戴して現在地に祀った。宝永6年(1709)火災で炎上。天保2年(1831)再建して現在に至っている。明治6年村社に列した。大正12年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。御祭神:譽田別尊、天照大御神、素盞嗚神
主な祭典 10月15日:秋季大祭、4月28日:春季大祭、7月14日:夏祭(文:岡山県神社庁HPより)(2017年6月11日撮影)

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徳守神社墓地入口にある石碑

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 2015年4月28日撮影のこの石碑は、津山市小田中にある徳守神社墓地の入口にある。
何気なく通っていた道ですが、ふと見ると字がうっすらと見えてきたので、ご近所の方に伺うと「私の子どもの頃からあったもので、よく座っていたわ~。そんなこと気が付かなかった!」と驚いていらっしゃいました。徳守神社でお尋ねしても解らなかった石碑。さて、なんの石碑でしょうか?

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徳守神社の「大節分祭」2018

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2018年2月3日、宮脇町の徳守神社で「大節分祭」の豆まきがあり大勢の人で賑わっていました。
 1回目の豆まきは午後3時半から行われ、厄払いを受けた男女が特設舞台に上り、福豆やお菓子をまいていました。今年も大勢の参拝者で賑わった節分祭でした。

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柵原鉱山資料館(久米郡美咲町)

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昭和30年頃の鉱山の様子や鉱山町の暮らしぶりを再現した資料館
 昔なつかしい鉱山町を実感できる、鉱山町のにぎわいコーナー。立体絵日記で見る坑夫一家の暮らし、鉱山町のくらしコーナー。柵原の歴史や片上鉄道の歴史が一目でわかる、柵原の歴史コーナー。実物大の坑道が体験できる、採掘最前線コーナー。貴重な映像で鉱山町の歴史がわかる、鉱山町の映像コーナー。採掘から輸送までが一目でわかる、鉱山町展示コーナー。立体鉱山コーナーなどもあり親子で楽しめます。

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