新見御殿町まち歩き【1】

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2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
 新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
 当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。

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新見市立新見美術館(開館25周年記念で日本画を拝見してきました。)

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船川八幡宮
 船川八幡宮は鳥羽天皇の天永年間(1110年~1113年)に山城国男山町八幡宮から新見今市に勧請し、応永17年(1410年)に焼失しましたが、同21年(1414年)平信濃入道により再建したと伝えられます。戦国時代には鳶ヶ巣城主徳光兵庫頭の信仰が厚く、たまたま神夢により備中松山への船路を開いたことから船川の山号を贈り、以来船川八幡宮と称しました。正徳5年(1715年)新見藩主、関備前守長治侯により現在の位置に奉還されました。

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祐清とたまがき
"祐清"と"たまがき"は、共に室町時代の中期、新見庄に関係する人物です。
 当時、新見庄は、京都の東寺(教王護国寺)の荘園でした。東寺から派遣された代官であった祐清が、新見庄へ赴任したときに祐清の身の回りの世話をし、祐清を慕っていたのが"たまがき"です。
 祐清は、年貢の取り立てを厳しく行って農民の反感を買い、領内見回りの途中で殺害されました。
 たまがきは、祐清の死を悲しみ形見分けを請う書状を東寺に送りました。この書状は、現存する中世の農村女性の書いた手紙としては貴重な資料であり、平成9年に「たまがき書状」として国宝に指定されました。(説明:新見市)

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曹洞宗 清瀧山 西来寺
元禄11年(1698年)徳翁良高禅師は新見藩主関長治に現地を与えられ風木谷にあったと伝えられる西来庵を再興した。禅師は師僧月舟宗胡禅師の遺骨を宇治禅定寺より、開山として迎え自らは二世中興に下った。以降、藩祖関長治、四代政辰の二基を中心とした関家の菩提所となる。
徳翁良高禅師の法孫は全国に広がり、現在五百ヶ寺余りを数え、西来系の中心。

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西来寺

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新見市指定史跡 昭和57年9月7日指定
関長治・関政辰墓所
 新見藩初代藩主・関長治及び四代関政辰の墓所がある清瀧山西来寺は、もと西来庵と称し、元禄11年(1698)に良高和尚が長治に賜った現在地に堂塔を建立し、関家の菩提寺とした。
 長治は、津山藩主・森長継の5男として明暦3年(1657)に生まれ、元禄10年新見藩初代藩主となる。御殿・家中屋敷などを整備し、現在の新見のまちの基礎を築く。天文3年(1738)卒する。
 政辰は、新見藩三代藩主・関政富の5男として宝暦7年(1757)に生まれ、4歳にして四代藩主となるが、安永3年(1774)わずか18歳で卒する。
 指定地の墓所は、正面に長治の墓碑、その後方に政辰の墓碑が立ち、それぞれ一対の石灯籠がある。
 新見市教育委員会
その他、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様のお話によると、9代の長克侯のお墓(末裔の関様も 確認)もあるそうです。ただいたずらで石が削られているそうです。

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新見館址

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新見舘址碑
 新見藩の舘址の碑です。碑の位置は変えられています。現在碑があるのはかつて正門のあった場所です。
館はこのグランドの一角にありました。撰文(漢文の碑文)は犬養毅氏(元総理大臣)、篆額(てんがく)は新見藩第10代藩主の博直侯が書いておられます。当時同じ貴族院議員で交流が深かったようです。

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丸川松隠碑銘
 丸川松隠没後95年目に政府から従5位の追贈位があったのを記念して、昭和4年に新見阿哲の有志が松隠会を結成し、この地に仙台石で顕彰碑をつくりました。(丁度この頃新見に鉄道がついています。)篆額揮毫(てんがくきごう)は近衛文磨公、碑文は佐藤一斎によります。

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思誠舘跡碑
 思誠館は岡山県下で3番目に出来た藩校です。新見藩3代藩主関政富(まさとみ)侯によって宝暦15年(1755年)につくられました。
 思誠館(しせいかん)の、名称は、孟子の言葉に「誠は天の道なり、思誠は人の道なり、至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり」とあり、これから付けられています。



丸川松隠(新見藩校督学)
 丸川松隠は宝暦8年(1758年)6月21日倉敷の西阿知で生まれました。
当寺、西阿知は新見藩の飛び地でした。第5代新見藩主長誠(ながのぶ)侯の時代、安永から寛政にかけての20年間は天災が続き人心は荒れ、領民の悲劇も起こって、藩内はすさんでいました。長誠侯は、藩政の建て直しには人づくりが必要と考えられ、優れた指導者を探しておりました。西阿知に丸川松隠という朱子学者がいることをお聞きになり、思誠館の督学(校長)に迎えることにしました。
 その当時、丸川家は新見藩士ではありませんでした。丸川家は代々新見藩に仕えていましたが、松隠の父茂雄は新見藩(の仕籍)を離れて西阿知で庄屋の代わりをしておりました。この頃天災続きで、父は周辺の村代表として水の訴訟のため江戸へ6年間行っておりました。その間、舅姑の病気看病と家事や農業、育児等で母松の過労が続き、病に冒されます。父のいない間、母の看病を松隠がやっていました。松隠29歳の時、新見藩から親孝行を尽くしたというので表彰を受け、銀5枚と田畑の税の永代免除をうけました。幕府が編集した『孝義録』にも孝子として載りました。
松隠は母松の教えもあり、幼少から学問に精を出し、15歳で総社の亀山如水につき朱子学を学び、22歳で讃岐の尾池薫陵について医学を学びました。30歳で父母を亡くした後、33歳の時、大坂中井竹山の「懐徳書院」(現在の大阪大学のような学校)に入門し、この塾で佐藤一斉と共に英傑として天下に認められました。松隠の名が幕府にも聞こえ、老中松平定信から江戸学問所昌平校(現在の東京大学のような学校)の教授に招かれます。その同時期に第5代新見藩主関長誠侯から新見藩の藩校思誠館の督学に招かれます。幕府と新見藩の招きが期せず一致したのです。その時の松隠の答えです。「私の家は代々新見藩に仕えておりました。故あって父は新見藩の仕籍を脱しましたが、この度また私に声がかかりました。殿様のご恩はしばらくも忘れていません。敢て他へ仕官する気持ちはありません。」
 寛政5年(1793年)松隠36歳の時、長誠侯にお会いし、藩校思誠館の督学になり、18年間、君臣を越えた人間同士の関係が続きました。(文:新見御殿町まち歩きガイドの会パンフレット「御殿町まち歩き」より)