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取材記事内を検索ワード「津山市」で検索した結果,1551件の記事が見つかりました。

2018年 橋本さん宅のバラ園

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2018年5月19日・24日に津山市新田の橋本さん宅のバラを拝見してきました。
晴天になった5月24日には北里みゆき歌謡ショーがあり、知人友人が沢山来られていて、みゆきさんの歌に酔いしれていらっしゃいました。沢山のお花に囲まれて至福のひと時を過ごさせていただきました。バラの花はまだまだツボミも多く、オープンガーデン期間中の28日まで当分楽しめそうです。

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2018 Aさん宅のバラの花たち

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2018年5月19日に津山市新田にあるAさん宅のバラの花たちに会いに行って来ました。昨年も庭園内を拝見しましたが、今年は昨年とまた違ってすっきりとした中にも全体的にゴージャスな感じでした。また、ここのお庭には通称バナナの木があって、今年も満開でいい香りが庭中に漂っていました。

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2018年 甲本バラ園の花たち

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2018年5月19日、津山市領家にある甲本バラ園をお訪ねしてきました。約1か月前にもお邪魔しました時は「開花はおそらく5月半ばくらいかな?」とおっしゃっておられましたが、まさにその通り、5月19日には満開状態です。遠方からお見えの方たちが「きれいだわぁ~、お手入れが大変でしょうね。」とか口々に感想を言いながらバラ園を回っておられました。ここのバラの花の種類は約300種類くらいあるそうです。甲本さんは「多くの人に楽しんでもらえると励みになる。」とおっしゃっておられました。(2018年5月19日撮影)

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あけぼの旅館(文化庁 登録有形文化財)

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 あけぼの旅館は、津山城下町のほぼ中央部の津山市戸川町31番地に所在する。津山城下町の建設は、津山城の築城とともに、慶長9年(1604)から初代津山藩主森忠政によって開始され、およそ寛永年間(1624~44)頃には完成したとされている。
 城下町時代の戸川町は職人町で、慶長年間末以前は「富川」、以後は「戸川」の文字が用いられている。津山城下町を東西に走る出雲街道は戸川町の1本北側の本町2丁目と3丁目の通りにあたる。
 これまで、旅館名の表記は、あけぼの楼、阿けぼの、阿希ぼ乃、曙などとされてきたが、現在は「あけぼの」に統一されている。

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作楽神社と境内の碑

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 作楽神社案内(明治2年11月27日創建)御祭神 後醍醐天皇・児島高徳(旧社格県社)
由緒:元弘2年(1332)北条幕府のために隠岐に流される途中の後醍醐天皇がこの地にお宿りになり、児島備後三郎高徳が桜の幹を削って「天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」と記して天皇をお慰めした故事により、貞享5年(1688)津山藩森家の執政長尾勝明が顕彰碑を建て、のち、松平家の家臣道家大門らの努力によって神社が鎮祭された。境内地は約1万坪、鎌倉時代の守護職の館であった。大正11年、「院庄館跡、児島高徳伝説地」として国指定の史蹟となった。社宝の太刀(銘、来国行)は、国指定の重要文化財である。境内神社:護桜神社・水神祠(平成11年11月鎮座130年記念)(文:境内案内より)(2018年4月29日撮影)

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石山寺のぼたんの花

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 4月がも終わろうとしている30日に津山市大谷にある石山寺をお訪ねして来ました。石山寺には、ぼたんの花が沢山植えられて綺麗に咲いているとの情報があり行ってきました。少し道が細くなっていて車で対向する場所がほぼ無いので、歩いて散歩がてらに登られる方が多いのではと思います。登り道は、春には山桜がとても綺麗に咲き、山ツツジも沢山みられるところでもあります。また、秋には紅葉が美しい道で散歩におすすめです。(2018年4月30日撮影)

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大岡家屋敷跡・墓所(池ヶ原)

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大岡熊次郎  1842年5月20日~1920年6月1日(天保13年~大正9年)
 地方政治家、篤農家、郷土史家、勝南郡(現津山市)池ケ原村に生まれる。
 寛政の駕籠訴訟を行った岡伊八郎の孫。明治元年(1968年)徳川親藩のため窮地にたたされた津山藩は、津山城包囲軍の交渉に、岡熊次郎を外事部の肩書で派遣して、津山城は無事開城することになりました。明治21年(1888年)大岡と改姓。
 明治6年(1874年)血税一揆による犯罪者の発生防ぐ。明治7年 北条県会議員。
 明治9年 第八番会議所戸長。明治11年~12年 勝南郡書記として、窮民救済に尽力。
 明治15年 自由民権運動に参加。明治13年~25年連続3期、勝南郡選出の県会議員を務めた。また、養蚕事業や畜産事業や高取小学校や勝間田農林高校(現・勝間田高校)のも貢献。享年79才:大正9年(1920年)6月高取村村葬。(文:『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)

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バンブーミュージックフェスタ

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2018年4月22日に津山市戸脇の古民家「倭文の郷」で家族みんなで音食青緑「バンブーミュージックフェスタ」が開催されました。昔懐かしいエレキギターの音に誘われて竹林に入っていくと、タケノコがニョキニョキ生えているのにびっくり。後で、友人たちは案内してもらって、わらび採りに出掛けたそうです。(2014年9月14日(日)の取材は)こちら←

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【津山人】大谷是空(藤治郎)

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 大谷是空は(本名藤次郎)は、美作国西北條郡西苫田村大字山北の地に慶応3年(1867)10月27日、父為吉の次男として生まれた。和田克司著『正岡子規と大谷是空』によれば、子規が「筆まかせ」において、是空を親友と呼んだように、子規の青春時、是空はもっとも親しい子規の友人であり、心許した仲だったそうだ。
 明治17年(1884)に上京、進文学社に学び、次いで東京大学予備門に入学、在学中に第一高等中学校となり、5年経ったころ発病、22年に静養のため郷里に帰った。当時津山には小学校以上の公立学校はなかった。たまたま東京の青年協和会の手で学校を建てる募金のために有志が帰って来た。東京に美作人のための学校をつくろうとしたらしい。これに対して大谷是空は、東京のことは東京でせよ、われわれは郷里のためにやると決意、地元の有志やら、周辺の郡長によびかけ、普通学校が建った。これが動機となって、津山中学校が建つことになり、大谷は初期の教師となって、津中の教壇に立った。しかし明治30年には大阪に出て生命保険会社に就職、さらに東京汽船会社へ、それが合併して日清汽船となり、事務的才能を発揮した。 

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