美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

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光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

 光井家の代々の家伝によれば、光井兵庫介尚久の弟光井修理太夫尚昌が苫田郡田中庄に封ぜられ、横田城に移って田中修理大輔と稱した。その子尚春は幼少に してその城を保持することが出来なくて苫田郡高野に移り牧氏を頼って姓を光井に復した。その子兵衛尚時の長男が彌兵衛尚明と云い、尚明五世の孫の彌太郎尚 久、その子彌太郎尚歳を経て、その子彌太郎尚常は松平候の中庄屋を勤め、安政元年郷中間総締として江戸詰を命ぜられ、前後七回江戸に赴いた。その子彌平治 尚満まで中庄屋を勤めたと云う。
 尚常の妻里喜は安政五年六十二才で歿した(近長甲田氏)、光井系譜は天保七年に作成されている(尚常代)
 尚、義民の光芒を放った元禄一揆の高倉村大庄屋弟堀内四郎右衛門の妻は光井家の女であったと云い、元禄十二年三月三郎右衛門らが刑死した翌年元禄十三年四郎右衛門の妻光井氏は高倉神社に冥福を祈って奉納した燈籠が今も神社境内に息衝いている。
 菩提寺は河面の真言宗清瀧寺である。墓所も村道の傍にある。(文:2014年10月8日「美作の歴史を知る会現地見学資料」より)

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光井家の家紋                  在りし日の光井家の古いお墓

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在りし日の光井家のお墓

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2018年現在は墓じまいされてここに墓地はありません。(2014年10月8日撮影)