一郎さんと狐『山西の民話』

kitsune1.jpg

一郎さんがまだ12,3歳の頃の話。
親類の吉見に法事によばれて行きました。
ご馳走をよばれて帰ることになりました。見送りに出たおばさんが、
「一郎すこし遠いけど山道を帰らずに、大街道を帰りなさい」
と親切に言ってくれました。

 「ウン...」
と言ったが、近道は飯山道で大丈夫だと思った。重箱を背に負うて飯山道を足早に歩いて帰りました。
秋の日は早く、ななめに傾いていました。急ぎに急いたんですが、中々早く帰れません。
一郎さんは、おばさんの言いつけを聞いて、大街道を帰ったらよかったのにと後悔しました。
でも、もう半分歩いたら飯山道をこえられると思って元気を出して帰りました。


フト見ると向うの所に重箱がおちとる。
確か、おばさんが重箱はせなにおわしてくれたと思うがと思いました。
でも変なことだと思って拾らおうとすると重箱は「スルスルスル」と向こうに行きます。
こりゃーおかしいと思ってよく見ると重箱はやっぱり自分の背中にある。


「やれやれ」と思って歩きだし、しばらくするとまた重箱が道の上におちている。
拾おうとすると、又重箱が向うへ行く。

又しばらくする、重箱が道の上におちている。
拾おうとすると、又重箱が向うへ行く。


追いかけても追いかけても重箱は逃げる。


朝になって顔見知りのおじさんが通りかかり、「一郎さん、なにをしょうんさるん。」
とたずねられて、ふと正気をとりもどしてみると、
重箱を背負うたまま沼のまわりをぐるぐる回っていました。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ