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取材記事内を検索ワード「花」で検索した結果,1343件の記事が見つかりました。

グリーンヒルズでお散歩

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 2017年11月12日の少し曇り空だったのですが、夕暮れ時にグリーンヒルズ津山へお散歩に行って来ました。今丁度イチョウの木が黄色に色づいてとても綺麗でした。また、トリムの森は縄文遺跡をモチーフにした遊園地です。
 大地のウォールや石・丸太の滑り台、大きな自然石、砂場、ターザンロープなど子供達の豊かな想像力を生かした遊びができるゾーン。「トリムの森のわんぱく城」は県内の木材を使用した大型木製遊具で、低年齢の児童から小学校高学年までのお子様が安全に遊べる人気スポットです。ファミリーのためのテーブルベンチもあり、幼児から大人まで楽しめ、一日ゆったりと過ごせます。

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龍頭山 善應寺(大篠)

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 本堂横にあるのが樹令200年の「傘大モミジ」。2009年に大手術をして、今年は元気になって美しい姿で、一際めだっておりました。善應寺は高等高田小学校跡地の碑があったり、モミジの根元には、高浜虚子が読んだ大紅葉の句碑もあります。(2015年11月11日取材)(2015年のアジサイ)、(2014年の取材)、(2014年のアジサイ)、( 2012年の善應寺の樹令200年の「傘大モミジ」)、(2009年の取材

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【津山人】浮田佐平(1867-1939)

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 浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
 父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
 母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。 
 浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
 大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
 それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。

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白石齊・白石孝子夫妻の二人展

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陶芸家の白石齊さん(赤磐市)と奥様の白石孝子さんの二人展がアルネ津山4階のアートギャラリーで開かれました。10年ぶりに津山で開催する二人展です。齊さんの鳥の花器や皿・茶器も面白く、孝子さんの陶板に描いた秋の絵がいいですね。白石齊さんは、津山市田町出身で芸術一家。兄弟には俳句で有名な故白石哲さんや、民芸館の白石靖さんがいらっしゃいます。奥様の白石孝子さんは、日本では珍しいイコン画家さんです。(2017年10月21日撮影)

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保田扶佐子画集Ⅱ 刊行記念パーティー

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 2017年9月29日山下の津山国際ホテルで抽象画家で版画家の保田扶佐子さんの作品集Ⅱの刊行記念パーティー(保田扶佐子美術館主催)が開かれました。作品集Ⅱは、30年近く居住し、制作活動を行っているスペイン・バルセロナ市と津山市を往復しながら描いた保田扶佐子さんの絵画、版画の作品集の第Ⅱ集です。記念パーティーでは、ウエルカム ミュージック(現代音楽)が演奏された後、来賓の戸室敦夫さんの祝辞や美味しい食事を頂きながらの歓談、そしてアトラクションでは大いに笑った楽しい記念パーティーとなりました。

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笠場山福聚院 普門寺

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笠場山福聚院 普門寺 縁起
 木版略縁起によれば、「作州真嶋郡笠場山普門寺は往昔弘仁七年(816)吾弘法大師始めてこの山にあそび精修勤念したまう時に、祥瑞嶺上にあつまり閃光渓道に映ずるを観て、師深く求法の勝地なる事をさとり、ついに即ち本尊聖観音、不動、毘沙門の三尊並びに仁王の像を彫刻し、伽藍僧舎を草創して秘密瑜伽の道場をおこしたまう。しかるに、去る乱世の頃、仏閣ことごとく兵火に炎焼するといえども、彼の尊は泥中に入りて焼失したまう事なし。まことに上求菩提下化衆生の尊像なり。」とある。
 当時、普門寺周辺には、松本坊、一乗坊、中坊、新蔵坊の他数十戸の民家があり、耕地が開けていた。当山鎮守として、熊野三所権現を歓請し、北に大山を遙拝して信徒諸地より雲集していた。なお、本堂は寿永二年(1183)春、享保八年(1723)に再建され、辻氏安兵衛秀勝氏によって再建された記録もあり、現在の建物は、明治二十八年(1895)秋に再建されたものである。
常内に安置されている龍の彫刻(干ばつ時雨乞いの祈祷に用いた)は元禄二年(1689)当時の欄間である。(文:石碑より)(2017年5月14日取材)

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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赤白の彼岸花が綺麗でしたよ。

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川崎の緑地公園近くの土手に咲いた紅白の彼岸花が今年も美しく咲いていました。秋の彼岸の頃に忽然と現れて、真っ赤な花を咲かせるこの花は〔葉見ず花見ず〕とも呼ばれ、葉は花の時期にはなく、花が終わると伸びて来て秋から春まで生い茂ります。(2017年9月30日撮影)(2015年9月23日撮影

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新善光寺のミニ四国靈場、明星の井戸

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四国靈場八十八ヶ所の開基
 当時の四国霊場八十八ヶ所の勧請は、時の住職英傅和上により天保2年より7年がかりの天保9年(1839)正月に開基されたもので、一番札所寺阿波の靈山寺より八十八番札所寺讃岐の大窪寺に至る各札所寺の夫々の本尊像を現地の四国に於て石像に刻み当時寺まで運んだと言う誠に大掛かりな大事業であった。この勧請に参じた施主は、檀家を中心に近郷の篤信者を加え、各寺毎の施主名は石佛台に刻記されて、本堂前より金森山、城山の外周を巡り約1.5粁に渡って配置されている。この外に番外の堂宇が加わり一百余堂となり、今回の記念事業の一環として再整備されたものである。(文:現地案内板より)(撮影:2017年7月15日・8月12日)

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観音様(津山市種)

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 津山市種地内県道449号線沿いに、後醍醐天皇が隠岐へ配流の際に立ち寄り洗顔したことから「洗顔清水」と呼ばれる所があります。そのすぐ上の道沿いに観音様がおられますが、いつ行っても綺麗なお花が供えられていて地区の人々に大切に祀られています。(2015年11月11日撮影)

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