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八出天満宮保存修理事業完成奉祝祭

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 2012年6月17日(日)八出天満宮保存修理事業完成奉祝祭の様子です。
 学問の神様である菅原道真公は「天神様」として親しまれ、多くの人々に崇敬され、全国各地にお祀りされています。
 八出天満宮は、道真公が美作の国司であった父の病の見舞いに来られてこの地に八日留まり出立されたとき、里人が別れを惜しみ、徳を慕って祠を建てお祀りしたのが起源と伝えられている古社です。
 現在の御本殿は寛永14年(1637年)に建立され、氏子の方が維持管理し、これまで幾度も修理されてきましたが、近年老朽化が進み、特に鉄板で覆っている御本殿の屋根については、昭和27年の改修から60年が経過し、傷みがますますひどくなっていました。又、御本殿の瑞垣についてもブロックで囲み神社としての景観にそぐわない状態でした。
 平成15年、建立時の棟札が見つかり、御本殿と棟札等が津山市重要文化財に指定され、これを機に修復の機運が高まり、平成20年、氏子の方によって、「八出天満宮保存修理事業奉賛会」が結成され、御本殿、瑞垣等大改修をおこなうため募金活動が始まりました。
 平成23年になって国及び津山市から文化財修復補助金の交付が決定され、早速、念願であった修復工事に取りかかることができ、この度、めでたく竣工いたしました。
 最後になりましたが、事業実施にあたってご指導、ご尽力いただいた津山市教育委員会、氏子崇敬者、さらに工事関係者皆様に深く感謝申しあげます。
                                                                  平成24年3月吉日
                                                                      八出天満宮  宮司 石田博之
2009年の取材記事
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國司神社 (旧久米町)

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国司神社(2012.5.13取材)
 祭神は、大国主の神である。此の社の文書の中に祭神に関するものがある。
國司神社は、作陽誌に
同村(宮部下村)國主社、祭九月九日、境内東西十八間、南北十六間。
と書かれている、当社の文書によると、川原寺の信徒が話し合って、明応元(一三三八)年三月七日、出雲大社から國師大明神即ち、大国主の命を勧請し、現在の地に社殿を造営して産土の神としていつきまつり、子孫繁栄、五穀成就、牛馬安全の護り神様としたもので、其の後弘治元(一五五五)年に当社の神主家行見氏の祖霊社を祭り、天正三(一五七五)年には諏訪大明神(祭神建御名方の神と事代主の命の二柱)を勧請し、更に慶長三(一五九八)年に愛宕神社(祭神は雅産日の命・埴山姫の命・伊弉冊の命・天熊人の命)を併せ祭ったものである。(久米町史より)
 
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平賀元義の遺墨展が旅館「お多福」でありました。

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平賀元義(ひらがもとよし)(1800~1865)という人
幕末に万葉調の歌人として活躍した国学者で、正岡子規や斉藤茂吉等に影響を与えた人で個性的な書風を持つ歌人としても知られる。
 1800年(寛政12)に岡山藩士平尾長春の子として生まれ、岡山城下富田町で育った。
 1832年(天保3)脱藩し、平賀左衛門大郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などを放浪し、多くの万葉調の歌を作った。奔放純情で奇行が多かった、と伝えられる。
 生涯不遇の人で、学才を認められた矢先、路傍で卒中のため急死した。


平賀元義という人は作州を中心に旅を重ねた人で、弟子にこよなく愛された人である。
◎エピソード
・仏教が大嫌いな人で、仏教信者と袖が触れただけでも禊(みそぎ)を繰り返したという。
・武士の魂を持ちつつ、弟子の家を渡り歩いていた歌人。
(門人の家では塩とチリシを使い放題使ったので門人の奥さんから嫌われていると悟ったら、また次の門人を探して宿にしたが、門人からこよなく愛された人。
・使い古した着物を着ていた。

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作楽神社のカキツバタの花が綺麗ですね!

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2012年5月13日に津山市神戸(じんご)にある作楽神社の外堀で咲くカキツバタの花が周囲の緑に映えてとっても綺麗でした。そういえば年々増えてきていますね。ここのカキツバタは、住民有志のみなさんがお手入れをされていて、現在約2000株にもなっているそうです。12日~20日午前10時~午後1時にお茶の接待があるそうです。(過去の取材はこちらをご覧ください。)(さくら

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田熊 山頂に位置し祀られている愛宕神社

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2012.4.21
田熊 山頂に位置し祀られている愛宕神社
 広野小学校下の小村池を、東に沿って、田熊上土居方面へ至る坂道をあがると、北側の山頂にある位置に愛宕神社が祀られている。丘陵性の山地のため、軽四自動車ならば、坂道を上りきった所からか上土居西山集落の墓地のあたりから、愛宕神社周辺へ行き着くことができる。
 この辺りは、付近で一番高い山のため、樹木のない南面の展望がよく効く所であり、まことに愛宕の神を祀るにふさわしい場所と言える。福井の新宮山にも、同じく山頂部に小祠の愛宕様が祀られているが、こうした場所の限定は、愛宕の神の特性を考えてのうえと思われる。
 愛宕の神は言うまでもなく、京都市嵯峨の愛宕神社から勧請されたものである。京の愛宕神社は、もともとは、山城と丹羽との国境にあたる鷹峰の地に鎮座し、塞の神としての性格を備えていたといわれている。平安遷都後、比叡山に相対してそびえる愛宕山で祀られた。
 火の神の迦遇槌神(火産霊神)を祭神としていることから、鎮火火災の神、つまり都を火災から守る神として信仰され、ついには王城鎮護の神となって祀られた。やがて、多くの修験者たちが山籠りするようになると、愛宕山伏は諸国を遊行し、火伏せの神としての愛宕信仰を広めた。そして、村々の小高い丘を見つけては、そこに分社分霊を勧請してまわった。事例として、NHKの場合、東京港区の愛宕山にあり、その丘の上には愛宕神社が鎮座している。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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「津山城鉄砲隊」が誕生しました。

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 津山城鉄砲隊は、「開運!なんでも鑑定団」でもおなじみの澤田平先生のご指導により設立されました。
 澤田平先生は稲富流砲術の伝承者として、全国に約50ある鉄砲隊のうち、半数以上の設立、指導、訓練を行なってきている第一人者です。
 津山城鉄砲隊は、澤田先生ご指導の下、これまで四国川之江や奈良の柳生の里で練習を積み、4月15日「津山さくらまつり」でデビューしました。お披露目に際しては、澤田平先生率いる大阪城鉄砲隊のメンバーも応援に駆けつけ、津山城鉄砲隊とともに演舞を行ないました。(津山城鉄砲隊は、城下町津山の歴史や文化を多くの人市民に知ってもらい、武家屋敷の保存や出雲街道の町並保存整備等につなげてゆくための活動組織として結成されました。)
 鉄砲町には今も鉄砲同心屋敷が現存しており、市民にその存在と保存活動を理解してもらうために、江戸時代の鉄砲同心、子孫が発起人となり、津山で初めての鉄砲隊の結成となったものです。(2012年4月15日)

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
 田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。

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福井 古い伝承のある福井八幡宮

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福井 古い伝承のある福井八幡宮1(2012年2月12日取材)
 福井八幡宮は、自然の豊かな林に囲まれ、幅広い長い参道やよく整った境内、古い本殿や相応の拝殿の建物を有し、いかにも鎮守の森を思わせる神社である。しかしながら、道路から見えにくい離れた山中にあるため、地域の人以外は、その所在が知られていない。片山・桑田集落の南に広戸川が流れ、対岸に西から東へ川に沿ってなだらかな丘陵をなした山がある。その木立でおおわれている山の中腹に八幡様がある。
 四つ立橋を渡り、福井大崎線から勝間田方面に抜ける道(工門勝央線)に入ると、直ぐに参道の入口があり、尾根つたいに3~400m参道を上ると、神社境内に達する。この道が単に参道ばかりでなく、田熊方面に抜ける山道であったことを物語る道標が、入口に半ば埋もれ今も残されている。
 福井八幡宮の創設は古く、一説に平安時代、広山・田熊八幡と同様に、福井八幡宮は、清瀧寺本尊に対する南部の守護神として創設されたとも言われている。しかし、平安末期、新宮山に位置する新宮城とのかかわりのなかで、創設されたとの説が具体的で実証的である。

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