新野まつり(岡山県重要無形民俗文化財)

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2012年11月3日(土)「新野まつり」がありました。

新野まつり
作州三大まつりの一つに数えられる「新野まつり」は、新野山形の八幡宮を親神様として二松・天穂日・天津・天満神社の氏子たちが御輿をかつぎ、稲塚野の神事場に集まって豊穣の秋を祝い、新野郷すべての人々が喜びを確かめあい励ましあう一郷一所の大祭である。各神社の社伝は古く伝承行事もさまざまであるが、まつりの形態が今日のように郷土団結の様子を整えてきたのはおよそ室町期の頃であると推定されている。
 素朴な農民の心が大切にされ、今日まで受け継がれていることは吾が町・勝北の誇りである。祭日十一月三日

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◆苞餅(つともち)
八幡宮の御供田(こくでん)で収穫された米で餅をつき、鏡餅一重と小餅十二個入り(五)をつくってこれを苞につつむ。まつりの日、親神の神幸をむかえる末子の神、西下天満宮の神輿と山形三社(八幡様・若宮様・高良様)、そして西上天津社の神輿に労をねぎらって配られる餅である。

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◆奉納相撲
 まつりの前夜、各宮に神主や宮総代、部落役員が集まって宵まつりをする。神主がみそぎをしてまつりの無事を祈るころ、社前で子どもたちの相撲が奉納される。村の古老も青年たちも経験してきたよいまつりのハイライトである。

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◆古文書
延宝元年(1673)の免定書をはじめ元禄・宝暦・明和年間の明細帳など、各社の由緒調査書及び社蔵物も多い。文政十一年(1828)、神楽を奉納する場所(舞台)の問題で山形村と堀坂村が訴訟を起こし、調停にたった他村の五人の庄屋が、まことに粋なはからいをしたことによって、まつりが仲睦ましく続けられたことをしるす古文書などに、ふるさとの祖先たちのあたたかい"人の情"がしのばれる。

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◆稲塚野
 新野まつりの祭礼を行う一帯を稲塚野と呼ぶ、上代の地方官「稲置」のおかれていた所であると論ずる人もある。大鳥居をくぐり御神幸道の両側に推定樹齢300年といわれる松の大木がそびえ社叢としての見事さは近隣に例をみない。  
 勝北のまちで働く氏子と都会で働く仲間が声をかけあい肩をたたきあい旧交を温めあうのも、神事場でしか見られないすがたでありふるさとの心である。稲塚野は新野小学校発祥の地でもある。

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▲画像提供:津山市秘書広報室

◆獅子ねり
 伶人奏楽、うちならす太鼓の音に、二頭の獅子は古老たちから伝承された身ぶりよろしく威勢よく舞う。子どもの無事息災を祈って父親は勇壮な獅子の気息に吾子をふれさせる。
 村の伝統と信仰が重なりあい、まつりの一日、神事場にふるさとの思い出がはぐくまれる。

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▲画像提供:津山市秘書広報室

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新野まつりに参加していたワンちゃんのお召し物は着物

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新野まつりでは、各町内の子ども達がのぼりを持って神輿を先導します。

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のぼりを持つ子どもたち。ちょっと重そうです。

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▲画像提供:津山市秘書広報室

◆七体神輿
 古くは堀坂村を加えて八体の神輿が集まっていたが、いまでは旧新野村内の氏子から七体の神輿が稲塚野に勢ぞろいしてまつりの神事が行われる。作州屈指の祭礼である。

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▲画像提供:津山市秘書広報室

◆神輿ねり
 各神社で神輿に御霊移の式が終ると、大勢の若者たちが神輿をかつぎ、警固人に守られ緋緞子の幟をなびかせながら、大榊、幣帛、弓矢を持つ人、氏子総代、氏子たちが一体となって神事場にむかう。
 親神をむかえ、親神とともに七体の神輿が一列となって大鳥居をくぐる。まさに怒涛逆巻く潮の如く、神輿はゆり上げられゆり下げられ、松の大木のそそり立つ社叢にまつりの渦は高まる。 集う氏子3,000人

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新野まつりでは、今年から担ぎ手が円陣を組んで掛け声をかけていました。

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▲画像提供:津山市秘書広報室

祝詞奏上(のりとそうじょう)

 修袚(しゅうばつ)、開扉(かいひ)、献供(けんく)、祝詞(のりと)、奉拝(ほうはい)と、古式を守ってまつりはとり行われる。祝詞の内容は時代とともにいくらか変わってはいるが、郷内氏子の平和と安全、五穀の豊穣を感謝するものである。

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▲画像提供:津山市秘書広報室

◆浦安の舞
 太平洋戦争中に浦安の舞がはじまった。各社が順番を定め七体神輿の前で、巫女たちが浪たたぬ平和祈願の舞を奉納する

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新野まつりの屋台でアツアツの柴田のタイ焼きいただきました。

八幡神社
山形宮山にある八幡社は、社伝によれば天平十年(738)の創建、古くは上宮八幡宮と呼ばれていた。新野郷一帯の親神としての風格を備えた広大な神域と社叢は今日もなお大切に保護されている。
 輿ねりは勇壮である。このため、まつりの日には朝早くから神主や氏子総代、氏子たちが社頭に集まり輿の修理や補強をする。御霊移の儀式のあと、急な坂道を若者たちによって神輿は稲塚野の神事場に神幸する。

天穂日神社
 西中天満山に貞元二年(977)、天穂日の命を祭神として創建された社である。各社にはそれぞれ神楽殿があり、この舞台を利用しながら発展したのが横仙歌舞伎である。
 まつりの終わったころから芝居の稽古がはじまり、氏子たちは地下芝居の役者となって芸をきそう。神域は各村々の最高の娯楽場でもあった。

二松神社
 新野東二タ松の地に文治二年(1186)、美作の守護、梶原景時によって木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神として創建されたと社伝にみえる。
 まつりは氏子すべての喜びであり、団結の場である。神事場へ神幸の途中、西中天穂日の神輿を二松がむかえる習わしにこたえて、祭礼が終ると帰りは二松社の神輿を村境までおくる天穂日の神輿と氏子たちの連帯意識はまさに郷土愛でもある。

天満神社
 西下宮畝に長暦元年(1037)、菅原道真を祭神として創建されたと伝えられている。まつりの日、神主は馬に乗り金幣をささげ、若者たちの神輿とともに稲塚野の祭礼場に神幸する。
 天満社の神輿が親神を神事場(平松)にむかえ、まつりのすべての行事が終わると再び親神の神輿を途中までおくって行き、つと餅をいただくのは古来からの伝えである。


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