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蓮光寺

津山市林田は、中世には林田郷と呼ばれ、この地方の交易、文化の中心として、田中郷、戸川の宿と共に栄えた。林田郷はまた、津山に於ける日蓮宗発祥の地でもあった。
慶長8年、森忠政津山入府の後、慶長15年(1610)本光院日秀は、この地に明星山蓮光寺を開いた。開基檀越は金谷佐大夫夫妻である。
寛文年間となり、徳川幕府の日蓮宗への禁圧、所謂寛文の法難により、寺運は衰微を極めたが、延宝年間、第5世是音院日厳の入寺により再興される。下って天保末年に至り、火魔により本堂を焼失、嘉永元年(1848)第25世浄真院日誠により再建された。
昭和58年11月、第34世智寂院日照は本堂の昭和再建を発願し、檀信徒、法縁314名の浄財により、無縁墓地、納骨堂、歴代住職の墓地の造成、寺域の整備等を併せて施工し、本堂は昭和61年(1986)5月に上棟、同年12月に完成し、昭和62年10月10日に落慶法要を奉行した。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/jyoto/renkouji/index.html

慈恩寺

観音堂内、本体約4.6メートルの巨大な十一面観世音菩薩像は、樹齢約2000年の「木曽檜」の一木彫りで造られている仏像です。四方を囲う四天王像も約3メートルもあり、樹齢1800年の「姫小松」の一木彫り。制作年月日は大正初期から約6年間かけて作成されたもの。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/jyoto/jionji/

M&Y記念館/作家履歴と美術館の紹介

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▲有元利夫ポストカードセットより(許可済み)

有元利夫

1946年 岡山県津山市に生まれる。
1969年 東京藝術大学美術学部デザイン科に入学。
在学中に渡欧した際、イタリアのフレスコ画に強く感銘を受けフレスコ画と日本の仏画に共通点を見出し、岩絵具を用いることを決心する。
1972年 卒業制作「私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」10点連作が大学買い上げとなる。
卒業後、有元利夫はデザイナーとして電通に勤めるが、1976年より画業に専念。展覧会への出品を重ねる。
1978年 「花降る日」で安井賞特別賞を受賞。
1981年 「室内楽」にて第24回安井賞を受賞。
その後、有元利夫は彌生画廊を中心として数々の作品を発表し、多くの賞を受賞。
1985年2月24日肝臓癌のため逝去。若くして安井賞を受賞し画壇に華々しく迎えられたが、早逝のため、生涯に制作したタブローは400点に満たない。
主に女神を思わせる人物像をモチーフとした作品を好んだ。
岩絵具を使い、風化を意識した絵肌を持たせた静寂感のある有元の美しい作風は今も多くの人々を魅了し続けている。

有元利夫 を楽しむならば・・・ 
小川美術館
住  所 東京都千代田区三番町6-2三番町彌生館1F TEL:075-463-0007
開館時間 11:00~17:00 
休 館 日 企画展時のみの開館(常設展は開催していません)。

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平成23年津山武道学園稽古始め

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開催趣旨
武道の修練は、何事にもくじけない強い心身を培うとともに豊かな人間性を育むことを目的としています。
当美作地方は、古来から武道に大変造詣の深いところであり、今後当地において益々武道を隆盛させるために、武道諸団体が一堂に会して練磨し、より一層の連携を深めるとともに総合武道館の建設促進を目的に開催するものです。

平成23年津山武道学園稽古始め
1月8日(土)、津山総合体育館において、昨年までは「武道7団体合同稽古始め」として開催していましたが、今年から「津山武道学園稽古始め」として新たなるスタートを切りました。柔道さん、剣道さん、空手さん、合気道さん、弓道さん、相撲さんとの年1回の行事です。(文:少林寺拳法連盟 畝岡先生)

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大晦日、城東地区で竹灯籠300個のイベント

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 まちおこしの一環として、津山城東むかし町実行委員会主催の「宵の城東むかし町 涼風 城東灯籠祭り」が毎年7月18日に城東町並み保存地区で開催されます。旧街道沿い1.2㎞の区間内に城東地区の方々の手作りの灯籠が並べられ、古い町並みを温かい灯りで浮かび上がらせる幻想的なイベントですが、このイベントに訪れる方々はどう感じられているのか、今後もより良いものにしてゆくため、昨年のイベント時に来訪者にアンケートを実施しました。その結果、相対的には評価してくださる意見が多かったのですが、もう少し灯籠を増やして欲しいという意見もあり、この意見を受け、城東むかし町実行委員会の中から灯籠を増やそうという声があがり、5人のメンバーで「城東地区を元気にする会」が結成されました。
「城東地区を元気にする会」では、城東地区を元気な町にするため、楽しく地区内外の方々が交流できる場をつくり、地区の活性化を図ることを目的に活動をされています。
昨年の大晦日には大信寺に手作りの竹灯籠を300個ほど並べ灯りで幻想的な空間をつくりだし、100人もの参拝客に大変喜ばれました。
今後は、四季を通じて城東地区で竹灯籠のイベントを開催される予定です。

(文:特定非営利活動法人 つやまNPO支援センター まちのコンシェルジュ 山名 里佳さん)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその3

その1その2その3その4その5

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津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。

参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)

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▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその1

その1その2その3その4その5

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▲冠木門(公園になった為石段を作ったのですが、本当の姿は左右に防備のための石垣があったらしい)

「建武のころ(1334~1337)、すなわち足利尊氏が室町幕府を開いた頃、美作国の西北条部に鶴山という山があり、別名小篠山とも呼ばれていた。その南に留川(戸川)という清浄な川があった。付近には戸川町や林田町があって、毎月の一日と十五日には戸川の市と呼ばれる市がたち、美作国中の人々が群集を成して集まり、さまざまな商品の売買をした」(森家先代実録より)

ここでいう戸川町は吉井川の河原、あるいは川に面した安定し土地と考えられ、その町場を眼前にして、鶴山の中腹には福聚山妙法寺があり、その門前には門前町があったといわれています。
伝承では、妙法寺は津山城の「柳の檀」にあったとされています。この「柳の檀」というのは三の丸の段を指しており、鉄砲櫓の下の付近に大きな柳の木があったとされています。また、城内の煙硝蔵がった付近、現在の鶴山館が位置するあたりも妙法寺の院内であったと伝えられています。
そして、煙硝蔵の一段上の段には大きな桐の木があったことから「桐の檀」と称され、そこには鶴山八幡宮があったと伝えられています。また、戸川町には、後に城下の総鎮守となる徳守大明神が祭られていました。

慶長9年(1604)春、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い鶴山を城地と定めた森忠政は、まず「鶴山」の名称を「津山」改めたとといいます。そして、その年の秋には手斧始めとして徳守神社を造営し城下町の総鎮守としました。(津山城百聞録より抜粋)

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