その他の観光情報(※要整理/観光情報)

河面 上原丘陵に存続の先祖社

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河面 上原丘陵に存続の先祖社(光井家の先祖社境内)2012.1.22
河面地域で、ある老婆と話をしていると、次の旨の話を聞くことができた。
「私ら光井姓を名乗る一族は、上原の先祖の社をお祀りしている。
 年に一度、秋には先祖祭りとして、親類縁者の光井株が皆集まって近長の大夫(神主)に拝んでもらった後、その場所でにぎやかに会食する。神様として"武内」さん"を祀っている。」後日、近くの老人に案内してもらった。上原集落に近い丘陵に、屋敷森か古い塚(古墳)を思わせるこんもりとした林があって、鳥居や境内をもつ先祖社が祀られていることが分かった。
 古代から氏神信仰は、一族で先祖を祀る社をもち、「予祝祭」(よわいまつり)として春、「収穫祭」としての秋にお祭りを行い、一族みんなでの共同飲食をする習わしがあった。(岡山県史古代2)これは、それを今にしてうかがえる氏神信仰の珍しい社である。
 これと似た事例として、作州では、菅家一族の信仰が知られている。
 作州の菅家とは、菅原道真につながる子孫が平安末期に配流されてより、菅原満佐を祖とする武士団を形成し、菅家七流と言われる大きな勢力をもっていた。
奈義の有本を筆頭に、勝央の植月、鷹取、美作の福光、英田の江見、原田、広土など、この後に奈義・勝北の豊田、久米の垪和、作東の安東、英田の渋谷等々も同族となり南北朝から戦国時代にかけて武士団とし名を成した。
 この菅家一族は、先祖神として相撲の神で名高い野見宿禰を祀っていた。
光井家については、「森家以来の大農にして、旧家たり。相伝う、光井氏は当国神楽尾城主田中修理大夫某の子、光井大夫を以って始祖とす。その子孫毛利家に仕ふ。毛利背下の周防国住人光井右京亮の裔(えい)という。」(東作誌)とある。先祖は周防地方(山口県)の同姓の多い光の出自とのことである。市内にある神楽尾城や医王山城は、毛利配下の城であり、光井家は先祖が毛利家としてかかわるだけに、光井一族の信仰が注目される。

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日本の数学【和算(わさん)】にチャレンジ(6年算数)

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日本の数学【和算】
 江戸時代に日本独自の数学が発達し、「和算」とよばれています。
 中国からそろばんが入ってきて、そろばんを使ったわり算のしかたの本が出版されたり、生活の中での問題が作られたり、いろいろな長さや面積を求める問題が作られたりしました。
 そして、人々がくふうをこらした問題を作り、「算額(さんがく)」として神社にかかげることも行われました。
 円周率を12けたまで求めた関孝和(せきたかかず)も、和算の発達に力をつくした人です。また、吉田光由(よしだみつよし)という人が書いた「塵劫記(じんこうき)」という和算の本は、多くの人に読まれました。
 和算のススメ!(和算とは、和算の教科書、算額というもの、世界的な大数学者 関孝和、和算の衰退、再び光が、子どもたちに和算を教える意義:和田陽子)
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田熊八幡宮の廻り舞台

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 重要有形民俗文化財「田熊の舞台保存修理工事報告書/田熊八幡神社」より

竣工 境内全景(正面に舞台、その西側(下手)に花道が拝殿に続く)

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 左より舞台・花道・外観・舞台部内部(西から)・奈落部内部(西から)

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 皿回し式廻り舞台(盆を足で蹴って踏みまわす)・回転機構(横から)・回転装置(南からみる)

国の重要有形文化財に指定(昭和50年9月)されている「田熊の舞台」は明治4年(1871)の建築であり、明治・大正・昭和と娯楽の場として利用されて来ましたが、戦後の娯楽指向の変化によってその利用がされず、建築後およそ130年が経過し、傷みが進んで倒壊が危ぶまれる状態でしたが、先祖が残してくれた町内では唯一の文化財であること等、町民の皆様の理解が高まり、特に町外に在住されている田熊出身者の賛同も得られ、最終的には、目標額を超える多額の浄財が寄せられ、平成16年12月に竣工しました。

★2009年の取材はこちらからどうぞ津山国際総合音楽祭

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萬福寺

和銅元年(西暦708年)正月十三日 黒沢山の檜の梢に虚空蔵様が来降された。その霊瑞に居合わせた惣薪太夫という猟師(のちに僧となる)によって堂が結ばれたのが萬福寺の始まりとされている。
旧正月の12・13日は(今2月の最終金・土・日を縁日としています。)福笹は縁起物で商売繁盛・家運長久を願って買い求められます。「福銭」は翌年倍にして返すと、ご利益があるといわれます。
本堂のほかに百人収容できる道場があり、座禅、研修の宿泊施設がととのっている。奥の院にはミニ八十八ヶ所が作られて、新しい名所ともなっている。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/manpukuzi/index.html

善應寺

当山は比叡山延暦寺第四祖慈覚大師が美作の国を御巡教の際、美作一の宮である中山神社にご参ろうの折、東北の山頂に紫雲のたなびくのを見て、霊地のある事を知り、深山に分け入られると、にわかに甘露が降り、雲中より蟠龍が頭を挙げて、大師の登山を歓び迎える様をしたので、山号を龍頭山と名付け、大師護持の一寸八分の観音像を本尊の体内に納めて当寺の本尊とし、一宇の草堂を建立されました。その後次第に栄え、三十三所の観音を末寺として大伽籃を構えていたが、兵火の為焼失し衰微したが、慶長年間に秀円法印が再興し、その後中興第10世宥盛法印の宝暦年間に元に服したが、文政年中に野火に遭い焼失し、再建中に再度火災に遭い、慶応2年に復興しました。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/zenouji/index.html

国分寺

鎮護国家を標榜された聖武天皇は国ごとに国分寺、国分尼寺を置かれましたが、美作国にも現在の東津山駅から1kmばかり南東の場所に作られました。全国の国分寺の中でも最大級のものだったようです。(→史跡:美作国分寺跡についてはこちら

しかし、当時の建物は、兵火によって悉く灰燼に帰し、今は礎石が幾つか残るのみとなっています。現在の建物は津山藩松平氏の援助により、文政11年(1828)に再建されたということです。

https://www.e-tsuyama.com/knowledge/history/kokubunzi/kubunnizi.html

千年寺

名を長継山千年寺といい、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されていました。
現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/sennenji/index.html
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