正仙塚古墳(高野山西)
山西の丘に、正仙塚古墳があります。
五世紀のころつくられたと、研究者永山卯三郎氏はいっています。
長い間に、古墳の上のもり土が雨などで流され、あらわれたのでしょう。ふたの石は、一枚石で、人の手で、たくみに加工されています。石棺の内がわは、べんがらがぬられています。
古墳の丘の大きさは、今ではくわしくはわかりませんが」、かなり大規模な前方後円墳です。
山西の人たちは、武塚古墳とも呼んでいます。
(文:高野小学校 むかし高野より)2015年1月25日取材
山西の丘に、正仙塚古墳があります。
五世紀のころつくられたと、研究者永山卯三郎氏はいっています。
長い間に、古墳の上のもり土が雨などで流され、あらわれたのでしょう。ふたの石は、一枚石で、人の手で、たくみに加工されています。石棺の内がわは、べんがらがぬられています。
古墳の丘の大きさは、今ではくわしくはわかりませんが」、かなり大規模な前方後円墳です。
山西の人たちは、武塚古墳とも呼んでいます。
(文:高野小学校 むかし高野より)2015年1月25日取材
つやまギャラリーⅢ2015年2月1日くらやアートホールにて津山市教育委員会主催の「浮世絵ー役者絵あれこれー」美作出身の医家が収集した浮世絵の中から、歌舞伎役者を描いた「役者絵」を展示。津山初公開のものを中心に選ばれたそうです。
国貞
歌川国貞は江戸後期から幕末にかけて活躍した浮世絵師で、初代歌川豊国の門人です。五渡亭、香蝶楼、一雄斎、浮世又平、不器用又平など数多くの号を使いました。作画期間が長く、膨大な量の作品を残しています。
飯綱神社(津山市高野押入)
『美作國神社資料』には、「苫田郡高野村大字押入字下押入 村社 飯綱神社 祭神 倉稲魂命 祭日 例祭 十月二十日 社殿 本殿 神楽殿 氏子戸数 六拾戸 境内神社 尾鼻神社 祭神 高龗神命 由緒沿革不詳」とあります。
「北 順佑全国プロデビュー3周年記念ピアノリサイタルin Japan」が、2015年1月18日(日)津山市大田にあるモンレーヴで行われました。(賛助出演:津山市在住の笑顔のダウン症ピアニスト 川嶋 絢さん)
2015年1月6日(火)~2015年1月8日(木)「作州絣保存会」作品展が津山市新魚町のアルネ・津山4階市立文化展示ホールであり、最終日の1月8日取材してきました。
作州(美作國)にて織られていた手織り作州絣を、この地に伝えてゆきたいという思いから、平成24年に「織り人養成講座」を開講して3年を迎えた保存会の皆さんが、初めての作品展を開催されました。
小野のお通
江戸時代のはじめのころのことです。
高野押入村に、女の子が生まれました。名をお通といいました。小野は、母方の姓です。
お通は5才で、和歌をよみました。10才になると、布を織ることをおぼえ、12才で、むずかしい漢学の本がよめるようになりました。
そのうえ、とても美しい娘だったので、美作の国中で評判になりました。
16才になったときうわさを聞いた都のお金持ちが、およめにほしいともうしこみました。お通は気がすすまないようすでしたが、およめにいくことがきまりました。
高野田んぼのまん中に、一本の大きなアカメヤナギが立っていました。この木は、遠くからでもながめることができ、古くから人々にしたしまれている名木でした。(2014年伐採)
この木の根元には、才の神さまがまつられています。才の神は、村人を悪魔や病気などのわざわいから守ってくれる神さまです。おそろしい伝染病などをふせいでもらえると信じられていました。才の神は、まった、旅の安全を守ってくれる神さまでもありました。
2014年11月30日に津山市立津山東公民館にて「津山ボタニカルアートの会」作品展があり、行って来ました。
宇田川榕菴は、ヨーロッパで、はやくから「植物学」がすすんでいることに目を開かれ、「菩多尼
訶教」(ボタニカキョウ)を著して、わが国ではじめて植物学を紹介しました。「ボタニカ」はラテン語で植物学のことです。描き方や画材は、ペン画・鉛筆画・水彩画・油彩画などいろいろですが、透明水彩画が一般的です。(文:津山ボタニカルアートの会より)
狐塚遺跡(きつねづかいせき)
この遺跡は古墳時代後期(七世紀前半、約1300年前)のムラの跡です。津山東中学校の建設に先立ち津山市教育委員会が1973年に発掘調査しました。
東西100、南北30mの調査範囲から竪穴式住居址二五軒、建物跡十一軒が発見されました。これらの遺構からは鍛冶炉とともに多量の鉄滓(製鉄や鉄加工をした時に残る鉄かす)が見つかりました。鉄滓には、製鉄をした時にできる製錬滓があることや、鉄鉱石の破片が住居内から出土したことから、このムラに住んでいた人々は、製鉄や鍛冶にたづさわっていたことがわかりました。(前回の取材)
地元に残る、温泉街の古写真、東方向から 明治時代の撮影で押入の古川沿い、因美線の鉄橋近くにある明治時代の温泉跡です。(写真他資料提供:赤坂健太郎さん)
津山市出身で岡山市在住の赤坂健太郎さんが「苫田郡誌」で「小原と押入に冷泉があった。」とする記述を発見し、その謎を解くため紙面を通じて言い伝えなどを募ったところ、小原冷泉は郡誌の記録通り現在の大月公園南東側にあったらしく、近くの清水洋一さん宅では温泉の存在を証明する古い試料を大切に保管していたという。