取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「社」で検索した結果,1117件の記事が見つかりました。

吉田神社【津山市院庄地区】

yo16.jpg

▲吉田神社(2011.4.16)

 津山市神戸字神戸本庄防292番地にあり、祭神は天児屋根の命(あめのこみこと)ほか七柱の神を祀ってある。明治40年、神饌幣帛供進神社に指定せられた。
創立の年月日は不詳であるが、社伝によると、承久三年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時のため隠岐の国に流される途次、后宮が御病気になられたので、上皇は美作国神戸郷院荘に御駐輦され、皇運恢復万民安楽の御祈祷を行われるため行在所の西北に方る清浄な地を撰んで諸神を祭られた跡と伝えられ、以来神戸村および院庄村の氏神とされた。寛文四年(1665)、国主森長継が巨費を投じて現在の地に勧請されたことが棟札社伝に明記されているという。
その旧跡は宇古宮の地名として盛土が残っている。長継が造営した社殿は高さ一丈七尺、桁梁二間四方もある美麗を尽くしたもので、同時に社領七反歩も寄進されたという。祭神は京都の吉田神社、奈良の春日神社と同一で、何れも藤原氏の先祖を祭るものとして朝廷や公家の信仰が厚かったものである。長継が何故社殿を移転したかについては詳でないが、苫田郡誌によると「長継深く心を民生に注ぎ大いに力を荒蕪地の開墾及農桑の奨励に致せり。慶安元年には西々条郡布原の原野を開きて香々美川の水を注がしめ、承応元年もじゃ田圃の間に家居する農民に令して山麓に徒居せしめ以って良地を墳塞するの弊を除かしめ」云々とあるから、現在の吉田神社境内は昔から度重なる吉井川の氾濫で砂礫が堆積して河原状の土地であったというから、そこに神社を移し、跡地を耕地とする目的があったのではあるまいか。(院庄公民館創立10周年記念「院庄誌」より)

吉田神社【津山市院庄地区】の続きを読む

女院畔(にょいんぐろ)【津山市院庄地区】

女印畔(にょいんぐろ)3.jpg

▲女院畔(にょいんぐろ)2011.3.22

 大字院庄字女院畔107ノ1番地の田圃中にあり、陸上に植えてあった古松は枯れ、墓趾も崩れて小さくなっている。昔、承久の変(1221)に後鳥羽上皇は北条義時のために捕らえられて隠岐へ遷されたが、途中后宮が病を発せられたので院庄に御駐輦になり、病気平癒のご祈祷をせられたが遂に薨去されたのでここに葬られたという。因に后宮は伊賀の局と申され、祈祷所の跡は吉田神社として神戸の氏神となっている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

女院畔(にょいんぐろ)【津山市院庄地区】の続きを読む

映画「ホルモン女」撮影風景【水島食堂編】

8kamo13.jpg

▲水島食堂にて「ホルモン女」の撮影中!

「雪」が降っている中での撮影です。スタッフのみなさんは勿論、みんな必死!寒かったぁ~!

沖縄国際映画祭 津山編 2011年2月14日(月)「ホルモン女」水島食堂撮影風景

映画「ホルモン女」撮影風景【水島食堂編】の続きを読む

映画「ホルモン女」撮影風景【橋野食堂編】

rio.jpg

▲沖縄国際映画祭 津山編 2011年2月11日(金)「ホルモン女」橋野食堂撮影風景

この日も寒い寒い一日で、撮影現場では山下リオさんはじめ、スタッフのみなさんも寒さをこらえながら一生懸命でした。出演者:山下リオ(坂井ひろこ)

映画「ホルモン女」撮影風景【橋野食堂編】の続きを読む

嵯峨井堰・嵯峨用水【さら山地区】

sagaiseki23.jpg

▲嵯峨井堰(2011.4.11)(2016年の嵯峨用水にかかる水車の記事)(嵯峨山のつつじ
 寛永9年(1632年)津山藩主森忠政が改修を命じたのが始まりとされています。
 工事は難航し、村のために自ら人身御供になった「お福」さんの悲しい伝説も残ります。
 昭和37年の台風で決壊し、改修工事に着手し昭和47年に完成して、現在に至ります。
 (全長240m、満水時保有水量4万t)

嵯峨井堰・嵯峨用水【さら山地区】の続きを読む

【4月3日】千光寺のさくら咲いています。

ライトアップ自粛の情報がありましたがデマだったようです。弊社の裏付け不足でご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます。(平成23年4月7日 追記)

 

senkouzi5.jpg

▲2011年4月3日(日)

千光寺のしだれ桜が咲いています。夜のライトアップが始まっています。

【4月3日】千光寺のさくら咲いています。の続きを読む

善應寺

当山は比叡山延暦寺第四祖慈覚大師が美作の国を御巡教の際、美作一の宮である中山神社にご参ろうの折、東北の山頂に紫雲のたなびくのを見て、霊地のある事を知り、深山に分け入られると、にわかに甘露が降り、雲中より蟠龍が頭を挙げて、大師の登山を歓び迎える様をしたので、山号を龍頭山と名付け、大師護持の一寸八分の観音像を本尊の体内に納めて当寺の本尊とし、一宇の草堂を建立されました。その後次第に栄え、三十三所の観音を末寺として大伽籃を構えていたが、兵火の為焼失し衰微したが、慶長年間に秀円法印が再興し、その後中興第10世宥盛法印の宝暦年間に元に服したが、文政年中に野火に遭い焼失し、再建中に再度火災に遭い、慶応2年に復興しました。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/zenouji/index.html

地蔵院

地蔵院の特殊性は、愛宕勝(将)軍地蔵、もと正殿にあった五大明王尊、つまり不動明王を中心に、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王と、宕々庵にあった聖天仏が愛宕堂に祀られ、元の東照宮本殿内には徳川家康、松平忠直両遠祖の神像と五社の仏像が祀られている。まことに多彩で珍しいところ。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/jizouin/index.html

新善光寺

高野山真言宗 新善光寺は山号を金森山と称し、天長八年(831)弘法大師によって開基され、本尊は阿弥陀如来である。鎌倉時代の遊行聖で時宗の開祖一遍上人(1238~1289)の遍歴の生涯を描いた絵巻物「一遍聖絵」(国宝・京都歓喜光寺蔵1299完成)の中の、第八美作一宮中山神社の絵巻の詞書の一節に「それ(註・一の宮)をたちて、かなもりと申所におはしたりけるに・・・」と記されており「かなもり」とは金森山を指すものであると古くから伝えられている。
一切を捨てて一生を旅のうちにあって念仏の教えを説いた一遍上人が弘安九年(1286)美作一宮から当山にきて滞在したのである。

入り口にある「茶屋林道標」は市指定重要文化財(建造物)。

https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/shinzenkoji/index.html

青木山 寂静院 聖徳寺 (小田中)

聖徳寺

青木山 寂静院 聖徳寺の開基

 当山は、和銅7年(714年)6 月に、神融禅師によって開創されたお寺です。昔は現在の苫田郡鏡野町上森原にお寺がありました。 その当時は青木山極楽寺寂静院といいました。その後、慶長の始めに森 忠政公が津山の守護となって築城のみぎり、当時の住職快音上人は現在の地津山市小田 中に移しました。この地は昔聖徳太子が諸国を遊化され立ち寄られた場所である。正保年に、寂静院に一堂を建立し、聖徳太子の像を安置することを人々により 願われた。当時の快映上人は四天王寺に詣で太子を拝見する。孝養の御影を写し帰って、微妙の尊像を彫刻し御頭に仏舎利を納め奉って、当寺の本尊として安置 した。これ以降、聖徳太子の霊地となり。寂静院改め聖徳寺と号した。(情報提供:聖徳寺)

青木山 寂静院 聖徳寺 (小田中)の続きを読む