四国八十八ケ所霊場巡拝<第18番~第24番>
2016年10月26日・27日に津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝(四国を一周ぐるりと囲むように点在する弘法大師空海ゆかりの八十八の札所寺院)、初回は第18番札所~第30番札所まで(一泊二日)に参加させていただきました。その時の様子をまとめてみました。今回は第18番~第24番までをご紹介します。
2016年10月26日・27日に津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝(四国を一周ぐるりと囲むように点在する弘法大師空海ゆかりの八十八の札所寺院)、初回は第18番札所~第30番札所まで(一泊二日)に参加させていただきました。その時の様子をまとめてみました。今回は第18番~第24番までをご紹介します。
第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」
2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。今回が出雲街道歩きは最終回とのお話で50名の定員を大幅に超える78名の参加がありました。10:30分受付を済ませ、新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後、12:00バスにて乢根(たわね)まで行き、四十曲峠を超えて来ました。レポートその1は四十曲峠~嵐ヶ乢まで。
耳地蔵 津山市東一宮141-2
大庄屋の中島孫左衛門は、朝鮮出陣中討ち取った敵兵の耳たぶを斬り戦功の証としたが、軍命によるとはいえまことに哀れなことなので帰国後ここに塚をつくり『耳地蔵』としてその霊を弔った。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
脚、腰の病気に効験ある地蔵菩薩として祀られている。(2017年2月19日撮影)
以前、東一宮の鳥居公園付近に設置されていたが、土地区画整理事業に伴い現在地に移設された由。
地蔵碑に『右 月本雲祐助』とある。同じような地蔵尊が『南条坂』にもある。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)
大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
寺史略伝 (出典・・寺内古文書・苫田郡誌 他)
本尊 地蔵菩薩(木像 坐像 厨子内) 内仏(位牌堂) 薬師如来(木像 坐像)
清和天皇の御代、貞観2年(西暦860年頃)天台宗の開祖 伝教大師の弟子天台宗第3世座主 慈覚大師円仁が唐より帰朝、巡錫のみぎり美作地方に48ヵ寺を建立された。多福寺はその1つであると伝えられている。
応永年間(1390年頃)住職覚円は学徳共にすぐれ、寺門おおいに繁栄し山内の数房あり、安養房、林房、竹本坊、大門、総門、鐘撞堂などの地名や呼称の地が存在しているところから、この頃の多福寺の位置は現在の「奥谷」よりまだ奥で、横野の滝近くの地にあり、大寺であったことが想像される。
寛永年間(1602年頃)丹純和尚の頃更に寺門興隆したと言われている。(撮影2016年6月26日)
津山市下田邑から神楽尾城跡へ上る途中にこのような地蔵堂があります。(・地蔵菩薩御真言 おんかかかびさんまえいそわか ・地蔵様と大日様には水をかけないでください。施主)と木のお札が掲げてありました。(2014年5月6日撮影)
作陽誌によると、昔、此のあたりに住んでいた肩野部氏の家に強盗が入り、肩野部氏は強盗により深手をおい再起不能となった。そこで、肩野部氏は妻に対して、「自分は命をとりとめることはとうてい出来ない。おまへは未だ歳も若いのだから、自分の死後は、やもめ暮らしをすることなく新しく夫を持って幸福にくらしてくれ。」と申し渡した。之に対して妻の曰く、「あなたが此の様な災難に遭ったのは天命であり、私が若くして夫に別れるのも亦(また)天命です。今後私のとるべき道は只一つ、天命に随(したが)うことで、それ以外に道はありません」と、早速に自分で髪を斬って再婚の意志の無いことを示した。そして夫の死後は尼となり、居宅を捨てて寺とした。善福寺がこれである。(取材2014年9月18日)
寿光寺の歴史
綱国と共に津山に来た養母の立長院が、西寺町の景徳寺の盤海という住職の仏典の講義を聞きに通っていた。
この西寺町の景徳寺とは現在の寿光寺のこと。森家のとき、忠政が各地の城造りに引き出されて多忙のため叔父の森可政を津山によんで忠政代理で築城と町造りの指揮に当たらせた。この可政が菩提寺として景徳寺を建てた。同寺の記録では元和元年になっている。その立長院の死により法諱「立長院殿雲嶽寿光大姉」から寿光寺と改名、忠直の「西岩院殿磬誉鉄心大居士」の諱号の西岩院を寺号にした。津山西寺町の西岩山寿光寺は松平忠直の寺でもある。(前回2009年の記事)(情報提供:壽光寺)