出雲街道を歩こう会「新庄宿」(レポートその1)
2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。今回が出雲街道歩きは最終回とのお話で50名の定員を大幅に超える78名の参加がありました。10:30分受付を済ませ、新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後、12:00バスにて乢根(たわね)まで行き、四十曲峠を超えて来ました。レポートその1は四十曲峠~嵐ヶ乢まで。
新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後
12:00バスにて鳥取県日野町・乢根(たわね)まで行き、そこからスタートです。
乢根登山口
乢根から文字通りの四十曲の急坂を上って二つ橋へ辿り着きますが、松江や広瀬の殿様は、どのようにして越えたのでしょうか思いやられます。馬も駕籠も用立たず、歩いたのでしょうか?
乢根から四十曲峠を目指して進みます。道は急坂で狭く曲がりくねっています。
姫路より松江間の街道では、最も険しい道と言われております。
四十曲峠の立札まで到着 やっと平らな所に出ました。
峠には茶屋が有ったと記録にあり、平坦な広場があり標識(木製)が、ポツンと立っていて、県境を示しています。
元禄4年(1691)の美作西部の地誌『作陽誌』には、「新庄村 府(津山)から13里31町、伯耆と作州の境、四十曲峠に至る里数である。戸数は342、人数1238人。この村は伯州と作州の境で、往還の駅伝である。美甘村にいたる1里10町。伯州日野郡板井原村にいたる2里。」とある。
四十曲峠を下り二つ橋集楽へ向かう。 牛が放牧されています。
四十曲峠
上りが一里(4キロメートル)下りが一里といい、始終曲りっぱなしの峠で、出雲街道で一番の難所でした。東の箱根にくらべられるほどだったという所です。
宝暦13年(1763)2月に、俳人魚坊は「名に聞こえたる四十曲のぼるほど、鶯のはなやかに啼きければ感ずるところあって」と
鶯の老いも近よる峠かな とよんでいます。
また、曲水発句集には、四十曲坂と題して
ひと曲り足の下ゆく時雨かな という句もあります。 新庄村教育委員会 (文:看板より)
二つ橋の集落に入ると、四十曲峠と田浪との分岐点に、六地蔵と少しの峠寄りに「距津山元標15里」の道しるべがあります。
二つ橋集楽の津山元標 六地蔵
茶屋集落
元禄2年(1689)には、戸数は5軒でした。ここは四十曲峠と嵐ヶ乢との間にありますので、峠越えの吹雪の時などには、旅人の泊り場所ともなり、天候の悪い時には家中の者が出て、家のなかへ引きいれ、休ませたということです。
旅人の通行も多く、他の集落よりは、にぎわったことでしょう。
田なみやおんごく
土用は地獄
花のみやこの二つ橋
とも、うたわれた所です。 新庄村教育委員会 (文:看板より)
馬頭観音です。
可愛い秋の野花が迎えてくれます。
ススキがいいですね。
『作陽誌』には「嵐ヶ乢は新庄村にある。これは伯州往還の道である。」とある。
休憩中のみなさんです。
嵐ヶ乢と地蔵
新庄宿と四十曲峠の中間にある鞍部で嵐ヶ乢といいます。上りは八丁(約900米)で、下りは7丁です。
津山藩主む領地検分のためにここまできたということです。
ここは江戸時代のままの出雲街道です。大名が通り、公家の姫の嫁入道中籠が越え俳人やお伊勢参りに、出雲大社詣での人たちも通った道なのです。
乢の頂上には地蔵さんがありましたが、今は下に下げ、この右の山の斜面に移されています。文政4年(1821)法界という文字が刻まれています。通る旅人は旅の安全を祈り、地元の村の人達は悪い病がここを越えて入ってこないよう願ったのです。
新庄村教育委員会 (文:看板より)
峠地蔵
現在の峠道は、以前より道路の盤下げ(約16m)を行い、勾配を緩やかにしている。
頂上にあった、峠地蔵は取り残され、昔の場所にあり、道からは見えない。
(文:案内資料より)