出雲街道を歩く(河辺から津山城下)

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第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」

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河辺バス停前                     河辺上之町

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出雲街道のうち河邊村  文久2年(1862)の略絵図面 寄贈:末澤敏男

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河辺上之町(桝形:市指定史跡)
 江戸初期、美作を領した森家は農地拡大の一環として「百姓村の山上がり」を断行しました。河辺村もその対象となり、寛文4年(1664)に村民の屋敷地を移転したのが、上之町です。この地はもともと肥し草の草苅場であったので、百姓側から嘆願した結果、津山城内の下草刈りを永代にわたって認められていました。ここには出雲街道も東西に通り、それに沿って屋敷が並ぶため、宿場町のような景観を呈しています。その中央北側に大庄屋・土居家の屋敷が構えられました。集落の東西の端には、街道の両側に石積が設けられ「桝形」と呼ばれて現存します。森家の跡に津山藩主となった松平家は、参勤交代の途次、藩領の東端に当たるこの地で休憩を取っていました(ただし、文化14年(1817)降は勝間田村が藩領の東端)。

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清水家住宅(登録文化財)
 この辺りの字は古屋敷と言い、いわゆる山上がりで農地化された場所ですが、明治以降に再び集落が形成されました。清水家住宅は明治35年(1902)頃の建築で、籠目小屋梁組という釘を使わない珍しい構造が評価され、登録文化財となりました。今も住宅として用いられており、お住まいの方が納屋の一室に古民具を展示し、希望者には開放しています。

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河辺

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交差点

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兼田橋   国分寺道・長尾山道の道標
 河辺から出雲街道を西へ進むと、加茂川を渡ることになります。今は橋が架けられていますが、江戸時代には川の水量の多い夏場は舟渡し、水量が減る冬場は土橋を架けて往来していました。川の西岸は兼田河原と呼ばれ、川崎村に属します。兼田河原は津山藩の刑場でもあり、重罪人が磔や斬首、火あぶりなどに処せられて晒され、往来の人々への見せしめとされたのです。川の両岸には石の道標のほか、刑死した数多くの人々を祀る供養塔が建てられています。寛政2年(1790)建立の三堺万霊塔、いわゆる千人塚も、当初は街道脇にあったものが、姫新線の線路南の土手に移転されました。因美線の敷設工事の際には、多数の白骨が見付かったため、工事を中断して慰霊・納骨の式典が行われました。

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川﨑
 川崎村の集落も、寛文6年(1666)と貞享2年(1685)の二度にわたり、隣の野介代村の台地へ山上がりさせられました。村絵図でもその様子が確認でき、街道筋の一部も野介代村に属していたことがわかります。

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玉琳 道祖神                      玉琳と因幡往来  
 この辺りは、もともと野介代村に属しましたが、貞享4年(1687)に分村して太田村になりました。出雲街道と因幡道の分岐点周辺は玉琳と呼ばれ、慶長年間の修験者・河内玉琳の名に由来します。彼は楠木正成の末裔で林田弓之町に住み、その遺言で葬られた場所が、北の丘の上の玉琳塚です。一説には、森忠政の津山築城時に起きた異変を祈祷で鎮めたとも言われています。かつての一里塚の痕跡は失われていますが、分岐点には供養塔や地蔵など多数の石造物が建っています。なお、この地にあった元禄道標の実物は、郷土博物館で保管しています。

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東松原 
 玉琳を過ぎると、かつては街道の両脇の松並木が500mほど続いていました。二宮の西松原に対して、こちらは東松原と呼ばれ、松が失われた今も地名として残ります。街道の幅は1丈8尺(約5.4m)、松土手は8尺(約2.4m)と定められ、街道沿いの住人が家役として管理する決まりでした。今の街道沿いの民家も、道から少し控えて建てられ、松並木の名残ではないかと思われます。

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旧妹尾銀行林田支店(市指定文化財)
大正9年(1920)の建築で、大工棟梁は池田豊太郎。神社仏閣風の本館は、千鳥破風入母屋造で内部は折上げ格天井の吹き抜けとなり、釘を使わず木組のみで巧みに建てられています。奥の倉庫と周囲の塀はレンガ造りで、和洋折衷の独特の外観です。玄昌石のスレートや吉野杉・屋久杉の天井板、長さ9mのケヤキの一枚板のカウンターなど、高級用材がふんだんに用いられています。昭和48年(1973)まで中国銀行津山東支店として、昭和53年~平成21年(1978~2009)には洋学資料館として利用されました。

古林田 
 東松原はちょうど今の総社川﨑線との交差点までで、ここに小川に架かる土橋があって、その西詰の両脇に桝形と呼ばれる石積がありました。ここから西は古林田と言い、かつて茅葺屋根の民家が並んでいた茅町で、東松原も古林田も川崎村に属します。津山藩主の参勤交代の際、町奉行はこの桝形で出迎え・見送りを行うしきたりでした。古林田の西端と東新町との境には関貫と呼ばれる門があり、津山城下と村方とを区切っていましたが、江戸後期にはこの辺りでしばしば境界論争が起こりました。

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荒神曲り大曲り
 津山城下に入った街道は、東新町と中之町で大きく屈曲しています。東新町での屈曲箇所は荒神曲り、中之町でのそれは大曲りと呼ばれます。各地の城下町や宿場町でも同様の例が見られ、敵軍の進攻の勢いをそぐための配慮だと伝えられています。今では交通の便を意識して角がだいぶ丸くなりましたが、それでも自動車が速度を落とす箇所です。

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城東伝統的建造物群保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)   忠兵衛鎌製作所
 宮川に東の旧城下町は城東地区と総称されます。北側の上之町を除いた約8.1haのエリアは城下の商家町として発展した町並みで、江戸時代に形成された町割を良く残し、江戸時代の町家を主体として昭和戦前期までに建築された、出格子窓、虫籠窓、海鼠壁、袖壁などを使用し、意匠的に優れた伝統的建造物が密度髙く建ち並び、津山城下に形成された商家町の歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高いと評価され、平成25年(2013)に重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。

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城東むかし町屋(梶村家旧宅)(建物は登録文化財、庭園は登録記念物)  
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された一角に梶村家旧宅があります。
 梶村家の元の名乗りは茂渡と言い、津山藩の札元を勤める豪商でした。東新町の旧宅には主屋、離れ座敷のほか土蔵や茶室、庭園があり、幕末から昭和初期にかけての商家の名残をよくとどめています。

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薬屋                大曲り               高山紙店
箕作阮甫旧宅(国指定史跡)
 津山藩お抱えの蘭学者・箕作阮甫(1799~1863)が幼少期を過ごした所で、昭和51年(1976)の解体復元時の調査により、街道筋の町屋の特徴をよく残していることが確認されています。平成22年(2010)に隣接地に移転オープンした洋学資料館と共に、城東地区の観光スポットの一つとして注目されています。

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旧苅田家住宅                    津山洋学資料館

旧苅田家住宅(建物は国指定文化財、敷地・酒造場は市指定史跡)
 苅田家は江戸時代中期にこの地で酒造業を始め、幕末には城下屈指の大店となり、周囲の敷地を取り込みつつ主屋の増築や土蔵群の整備がなされました。主屋は間口14間の町屋で、旧城下の現存する町屋で最大規模を誇ります。主屋の海鼠壁を用いた外観構成などが津山における町屋建築の典型を示すとともに、屋敷構えも酒造業の繁栄とともに発展した過程を示しており、津山を代表する商家の住宅として歴史的価値が高いと評価されています。

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宮川大橋 (東大番所跡)
 津山城下は、東は宮川、西は藺田川の内外で内町・外町の区切りがあり、宮川の大橋西詰と藺田川の翁橋東詰に東西の大番所が設けられて、道行く人々を監視していました。内町が城下町建設当初からの古い歴史を持つのに対して、外町はその後に街道に沿って町屋が東西に伸びて形成された、比較的新しい町並です。番所周辺の絵図によると、大橋を渡り切った所に木戸門があり、北側に番所小屋が建ち、南側は制札を掲げていた制札場という広場になっています。

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材木町、伏見町を通過

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京橋門跡
 津山城の堀は、明治以降すべて埋め立てられましたが、かつては城の南・西・北の三方にめぐっていました。6箇所に出入口が設けられ、そのうち京町の街道筋へ通じるこの出入口が大手筋でした。他はすべて土塁と土橋だったのに対して、ここだけは石垣が築かれ木橋が架かっていました。堀の幅は平均で13間(約24m)あり、木橋を渡ると正面は突き当りで右手に櫓門が設けられた、いわゆる桝形の形状でした。