大庄屋中島家跡(東一宮)
大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
ご近所の方に案内していただきました。昔は看板や立札があったそうですが、現存せずです。
参考:「護良親王」吉野に挙兵(1330年)の頃、今の奈義町中島西に「西坪城あり中島孫左衛門尉守りしが有元佐高に攻められ落城す。以来消息定かならずも中島管介秀政に至るその祖と口伝す。」
中島管介秀政は英田郡赤田城主・浦上宗景に仕え、天正5年(1577年)長子雄政9才の時、浦上宗景は宇喜多直家によって天神山城に敗れた。秀政は城に入って防戦したが遂に討ち死にし家は没落した。雄政は母の実家嵯峨山城の花房氏の許に寄食しその山麓に居住した。その後小田中郷、更に当一宮村に居を移して、天正19年(1591年)因州三瓶山城主武田隆信の孫娘を妻とした。文禄元年(1592年)には宇喜多秀家に従って朝鮮攻めに出陣した。長男三郎右衛門尉判介正吉は、森家2代藩主長継の馬廻士となり寛永2年(1625年)一宮村大庄屋役を仰附られた。9代中島静江政直は天保15年(1844年)大庄屋役を仰附られた。明治維新後は戸長を、また一時東南条郡郡長を勤めた。11代章氏は昭和3年仕事の関係もあり、一家をあげて東京へ移住した。現在の邸跡は当時の半分となり中島遊園として、老人会、子供会のリクリエーションの場に提供されている。
(勝田郡誌、中島家系譜、大庄屋縁起)
(上記写真提供:仁木富士夫様)2017年3月16日
中島家 中島三郎左衛門 東南条郡東一宮村 森藩~松平藩
大庄屋まで
東一宮村中島家は、高野本郷村中島家から分家した。中島菅助秀政は、天正年間(1753~1591)浦上宗景に仕え、戦功が多かった。その後、孫左衛門は、文禄元年(1592)宇喜多氏に従い朝鮮に出陣した。宇喜多氏滅亡後、東一宮村に帰農し、森藩によって大庄屋に任命された。
大庄屋として
中島家は、中山神社の保持に大きな役割を果たした。屋敷は中山神社門前近くにあり、一族は中山神社の神主を務めた。中島家は『津山藩大庄屋勤方書上帳』などを残している。香々美中村の大庄屋岸家が罷免された後、中島多右衛門が分家して、その後任になった。幕末の第一次長州戦争に中島春次郎は西田辺村土居通正とともに郷夫を引率して、山陰道に従軍している。(美作の大庄屋・大年寄記)
所在地
一宮村には美作一の宮である中山神社があり、古くから信仰の中心地であった。鎌倉時代初めに一遍上人が参詣した「一遍上人絵伝」が残る。江戸時代になると新たに一宮から香々美を通る伯耆往来が整備され、交通の要所になり、幕末には龍の口に番所が置かれた。また、中山神社では牛市が開かれ、中山神社の宮芝居として行われた芸能を楽しむところでもあった。
耳地蔵
中島孫左衛門は、朝鮮出陣中討ち取られた朝鮮人の供養のために塚を作ったといわれ、今は耳地蔵として祀られている。
屋敷・墓地
屋敷跡は、鵜羽川と宮川の合流地点に残っていて、屋敷跡には屋敷神を祀っている。墓地は屋敷跡の南の横野川左岸にある。代々の墓石が整理されている。菩提寺は真言宗聖徳寺(津山市小田中)である。
子孫
子孫は、関東に居住している。
(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)