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福井 新宮城に関わる伝承の真宮神社

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福井 新宮城(しんぐうじょう)に関わる伝承の真宮神社(しんぐうじんじゃ)2012.1.15取材
 福井より大崎に向かう道中、土居の公会堂の周辺は、花畑がありきれいに公園化されている。そこに、真宮神社の立派な石造りの鳥居が見られ、その鳥居には、「明治33年10月」と刻まれている。また、鳥居の側に細長い石に刻んだ歌碑があり、「幾千代の栄を古めて 国安らふ可みの御前に植し常盤木 明治19年9月11日 安藤直清 61才」とある。惜しまれることには、常盤木と詠まれた松は、株だけ残して今は存在していない。
 鳥居をくぐり、広戸川に沿って木立の参道を百数十メートルほど下ると、真宮神社の境内に至る。神社は、新宮山の南山麓の林の中に鎮座し、背後に巨大な岩壁がそそり立っており、一見して古代の磐座を想起させる環境にある。新宮城の築城以前から、新宮山が「神の山」と呼ばれていた所以であろう。

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堀坂上の稲荷山

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真澄社(向かって右から2番目のお社)
 真澄社は、堀坂上の市道からすぐ登れる耳高下の俗称稲荷山の山上にあり、上からは堀坂田圃が見わたせます。毎年4月上旬の日曜日に、上土居が真澄社、金毘羅社、稲荷神社、井手守社の合同春祭りとして祀っています。この日はお花見を兼ねて行われ、子どもから年配者まで多くの住民が参拝してにぎわっています。
 (1)真澄社の内容は、定かではないが伝えによると、明治の初期に起きた人身事件の供養のため村長が中心となって祀る慣わしで、今日まで引き継いでいます。
 (2)金毘羅社は、讃岐(香川)の金毘羅神社の勧請として、また稲荷神社は、備中高松(岡山市)稲荷神社の勧請として祀っているものです。昔遠くへ参拝に出かけられなかった時代に、こうした分社を作って、農業・商業などの繁栄と家内安全を祈願したものです。
 (3)愛宕神社は、京都の愛宕神社の勧請で“火伏の神”と呼ばれ毎年8月24日の夕刻に社前で迎火をたき、町内に火災がないよう安全祈願をしています。
 (4)井手守社は堀坂田畑の水が常に保たれるように“水の守”として祀っています。

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川崎八幡神社の湯立て神事

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▲湯立て神事(写真は2010年) 川崎八幡様年取材記事 

川崎八幡神社縁起 

 鎌倉時代(1185~1333年)後期、朝廷は南北に分裂し、うち続く戦乱に世相は騒然を極めていた。

 元弘二年(1332年)後醍醐帝は、隠岐配流の途中、院庄に駐輦された。
 備前国の忠臣、児島高徳は、杉坂峠(作東町)から御跡を慕い、院庄館で夜陰にまぎれ庭の桜樹に十字詩を奉った。

当事の林田郷川崎村は、吉井川と加茂川が合流して出来た三角州一帯(宇古屋敷)に在り、農耕を主体として生計を営んでいた。洪水による自然災害や、うち続く戦乱のなかで住民は信仰により安住を求めるようになったのであろう。
 元弘元年(1331年、661年前)豊前国宇佐郷(大分県宇佐市)に鎮座する宇佐八幡宮(祭神:誉田別尊「応神天皇」、比売神、気長足姫尊「神功皇后」の三神)を勧請し古屋敷地内に奉祠した。

 慶長八年(1603年、389年前)森 忠政が津山藩主として、信州川中島から、18万6500石を領し入卦、二代長継、三代長義に亘り、石高を増やすため新田の開発を図るとともに、平地から集落を高地へと移転させ農地の拡張を図ったため、実石高は26万石を超えるまでとなった。

 貞享二年(1685年、307年前)三代藩主長義の代に、川崎村の集落は北側の高台(宇寄広)に移転させられた。これにともない、神社も現在地(津山市川崎八幡西1042番地)に遷祠され、社号を弓矢八幡宮と称し安産の守護神として氏子はもとより近隣からも崇敬された。

 境内に三宝荒神社、末社として大歳大明神、惣道大明神、春日大明神、兼田大明神の四社が合祠された。

 現本殿は、近郷まれに見る緻細な彫刻を配しており、文政四年(1821年、171年前)津山藩主、八代松平斉民(確堂)の時代に再建されたものと考察される。(基礎台石に文政治四年三月、石工嘉左衛門の記名がある。) 旧拝殿や舞台、御輿、末社について江戸中期から後期にかけて建設されたものと考えられているが記録はない。先祖代々、崇敬維持されてきた神社拝殿、末社が老朽のため、このたび改築の運びとなったことは、氏子をはじめ関係者の皆様の信仰と郷土愛の賜であり、これを子々孫々に至るまで敬拝、継承を念ずるものであります。(2011年7月18日取材)

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西賀茂神社(津山市杉宮字上の山)

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▲西賀茂神社(2011.7.16取材)津山市杉宮字上の山406番地
鎮座地 大国主命 北境内社 三嶋神社 事代主命
御祭神 味鉏高彦根命(あじすきたかひこのみこと) 南境内社 八幡神社 誉田別命
御由緒
 大化元年物部芳子の祭処と云う往古鴨神社と号し加茂一郷の総社。中古より杉大明神さまと慕い郷人篤く景仰す。東三百九拾間のところ鳥居野(勝加茂保育園の東約150米に地名あり)の神事場には楢部落を含め各部落の神輿神幸郷人こぞって奉行室町末期まであり。今は往時をしのぶのみ。
 現本殿、木鳥居、太鼓は美作国主 森忠政公が津山城築城の時、丑寅位方よけの守護社として家中の伴八郎兵衛、長尾平左衛門を造営奉仕に任じ万治3年9月19日再建公儀寄進あり。夏越大抜祭の茅の輪くぐりは健康と家内安全を祈り、遠祖より連綿として伝承されている。明治6年西賀茂神社と改称幣帛供進社に指定された。
 御祭神の一柱 味鉏(すき)高彦根命の鉏(すき)は農耕用の鋤の意で出雲地方と共に製鉄業が栄えた中国山地の一角。この地に製鉄の神として祀られた境内小祠は神地の遠祖霊奉斎社。昭和20年まで勝加茂運営護持、以後中村と杉宮の氏子が奉護す。
 平成4年7月25日石垣拡張と洗い出し工事完了を以って境内整備を達成す。神域は末永く昔の縁と神厳さを保つよう努めている。
神社祭儀
・再旦祭1月1日、春祭4月3日、夏祭7月下旬日曜日、秋大祭11月2日・3日、冬祭12月3日、月並祭
諸祈願祭
・安産、命名、初宮、七五三 ・厄除、交通安全、家内安全 ・心願諸祈祷
 社務所 勝北町中村282 0868-29-1977 宮司 青山内  (案内板より)

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岩屋城跡(岡山県指定史跡)

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▲岡山県指定史跡 岩屋城跡

 嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国の守護に任ぜられた際に築城されたものと伝えられています。その後、天正17年(1589)8月、野火によって焼け廃城になるまでの148年間、山名、赤松、浦上、尼子、宇喜多、毛利の各氏が、美作国の制覇をかけて激しい攻防を繰り広げられた舞台ともなりました。

 城は岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に曲輪を配した複雑な梯郭式の山城で、本丸南に馬場、西南には石橋上や椿ヶ峪砦を設け、更に西には小分城を築き防備を固めていました。本丸東には二の丸を置き、その南には三の丸を配しています。東の谷の固めとしては、12本の竪堀を設けています。大手南斜面に見られる大小20箇所以上の防備のための郭は、美作地方では他に類をみないものです。他に井戸、慈悲門寺跡なども残っています。(2011.5.4)津山の文化財より

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院の庄【津山市院庄地域】

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▲院の庄地図(2011.4.16)。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 院庄の地は美作の略(ほぼ)中央にあたり、西から東に吉井川が流れ土地は平坦で水陸交通の便に恵まれ上古より美作の中心として栄えて来た所である。
 崇神天皇の御宇(316-391)諸国に神戸(じんご)を定め給うや吉備の神戸は苫西郡神戸郷に置かれたと、古書にあるから、それが立地条件から見て院庄の地であることは容易に諾ける。神戸とは諸国総鎮守の祭典、修理の用に充てるための領地で、美作一宮即ち中山神社、美作二宮即ち高野神社の神領になる訳である。
また、大化の改新の昔、院庄平野条理(現在の農地基盤整備)が行われていることから推しても、古くから肥沃な耕地が開けていたことが伺われる。下って王朝時代後鳥羽院の荘園となり、ここから院の荘(庄)の名が生まれたことは広く世に知られているところである。
 次いで源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めるに当たって諸国に守護職を置き地方の統治を行ったが美作守護職の館は院庄に置かれており、今の作楽神社境内がその遺跡を留めている。
元弘2年、後醍醐天皇は北条高時のために捕えられて隠岐に遷(うつ)されたが、その途中院庄の守護職館に3泊4日御逗留(とうりゅう)になったと伝えられている。その時備前の国の住人児島高徳が、ひそかに行在所に忍び入り桜を削って有名な「天勾践ヲ空シウスル莫レ時二范蠡無キニシモ非ズ」の十字の詩を書き記し、聖慮を慰め奉ったことは余りにも有名である。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しに してはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。

天皇御駐輦中の御製に次の二首がある。
あはれとはなれも見るらむわが民を
   思ふこころは今もかはらず

よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
   民のかまどをかくて見むとは

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長雲寺

 医王山 薬師院 長雲寺縁起
 往古、聖武天皇の御代に、行基菩薩の建立されし東漸寺(当時の東百メートルに地名が残る)は尼子・毛利の争いのため灰燼に来す。その跡地に残りし薬師如来像を運びて薬師堂を建立す。
 寛永元年(1624)備中の僧西乗院この地に来りて1寺を構え、いくばくもなくして帰る。同3年(1626)僧円寿、住職し、医王山長雲寺と号す。明暦 3年(1656)津山城主森長継公の女が眼病にて参詣祈願し利益を得て平癒す。よりて長継公堂宇を新築寄進す。爾来、賽者多く、世人伝えて出雲一畑薬師の 分身なりという。毎月8日の本尊縁日には終日参詣者が絶えない。
・本尊/薬師如来、脇侍 日光菩薩、脇侍 月光菩薩、脇侍 十二神将。本尊薬師如来の脇侍ならびに守護神にして、本尊如来の両脇に祀る。特に十二神将は薬 師如来を信修する者を1年間1躰ずつ開扉す。

・鎮守堂/本尊摩利支天。南岸の石山寺の摩利支天と対峙し、武運の守護神として尊崇さる。寛政11年(1761)に逝去されし武人、東常直も当山鎮守堂の施主なり。(当時の位牌有り) 別尊、三鬼大権現。養蚕の神として尊崇さる。
・石仏三十三観音/参道の両脇に祠られおりしを、大正年間、本堂裏に移し祠る。お堂巡りをし巡拝すれば、西国三十三ヶ所の巡拝すると同じ功徳を得るといわる。
・石仏/腰折れ地蔵(石段下の堂に祀る)いつの頃よりか、腰を病む者に御利益ありと詣ず者多し。地蔵に詣でし後、地蔵の腰紐を借り、御利益を受くれば、新 しき紐を倍にして返す。 地蔵常に新しき紐を多数諦めてござる。(2010.1.16取材)

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出雲街道 坪井宿

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坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

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田邊城跡

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▲2010.4月29日

田邊城(年末砦)
 田邊城は津山市中北上と宮部下の境界線上の、標高231米の山上、600米にわたって砦は構築されている。
この城の縄張りは、縄張図でわかるように馬場曲輪をふくむ19ヶ所の曲輪から成立ってている。主郭は東西が22米、南北17米の長方形で周囲を土塁で囲んでいる。
主郭の東側に曲輪があり、その曲輪の東側に二筋の堀切が掘られ主郭の備えが堅固となっている。二の郭は三ヶ所の曲輪から成り、中心になる曲輪が東西43米、南北が18米あり、両側に小曲輪を一段ずつ持っている。三の郭には4段の曲輪があり、中心になる曲輪が18米の正方形を成し、西側に三段の小曲輪が続き、四の郭えと通じている。四の郭は中心になる曲輪が東西24米、南北14米の長方形をなし、北西の端に大きな井戸を掘っている。井戸の直径は7米もあり、深さは長い年月、土・木の葉で埋まって不明である。都合5カ所の郭からこの城は成っており、それどれの曲輪に3米から5米の切岸を備え、切岸の下に犬走りが取巻き、互いに連絡がとれるようになっている。
その他、掘切り.のある箇所から南側と北側に堅堀が下がっている。東の端に東西200米、南北最大幅75米の馬場と呼ばれている平地がある。以上が田邊城の概要である。(情報提供:田邊九吾)

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