西山宗因の句碑(小田中新屋敷)
聖徳寺正門を入ってすぐ左側(新屋敷)
後年俳聖芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖宗因は承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で中秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている
月見れば こよひなりけり 旅の空 西山宗因 書は彫無季氏(2015年5月9日)
聖徳寺正門を入ってすぐ左側(新屋敷)
後年俳聖芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖宗因は承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で中秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている
月見れば こよひなりけり 旅の空 西山宗因 書は彫無季氏(2015年5月9日)
徳守神社 神徳の碑 (2015年5月2日取材)
徳守神社境内の北やや西よりに、末社の大国主神社がありますがその東隣りに円筒型の石碑がたてられています。この石碑に「県社徳守神社御神徳碑」と刻まれています。これは明治19年のこと、境内に土砂を入れてローラーでかためる作業が行われていましたが、当時の小田中村新田(今の小田中神田)の立石良次郎という人が、ローラー作業をしながら陰陽二柱神社の前に差し掛かった頃、誤って転倒しローラーの下敷きになりました。骨が砕け命を失うかと思われましたが、不思議なことに、身体が土中に埋もれ、かすり傷1つ負わなかったそうです。人々は皆、神様のご加護と感動し、このローラーの石を他に使うことを止め、徳守の大神様の神徳を称える碑として建てられたということです。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
道祖神の場所から西へ40メートル程進んだところに権ノ庄のお大師様があります。建立された年度は不明ですが、元々紫竹川の氾濫の多い場所を鎮める目的で、紫竹川から少し小高い部分に建てられたいたことが、付近の地名に安岡屋敷そうき畑の地名が残る事から分かります。現在は老朽化の為に平成16年12月に町内会と個人寄付により建て替え落慶法要を済ませました。その後、年二回の老人会の行事として長雲寺の住職の導師作法により法要を営んでおります。(文:つやま城西まるごとまち自慢より抜粋) 2015年4月8日取材
津山市下田邑に「従此千年寺道」の石柱がある。この石柱は、津山市一宮にある「瑠璃山 本光寺」と下田邑にある「長継山千年寺」(長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。)を結んだものでしょうか?※長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。(2014年5月6日取材)
北山に、こあざ五輪谷といわれるところがあります。
ここには、くずれ落ちてうもれた五輪墓の墓石がたくさん出てきます。くわしく調べられていないので、どのくらいの数がうまっているのかわかりません。
今までに、出てきた墓石を一か所に積みあげてありますが、およそ百こ以上もあります。組みたてたら、りっぱな五輪墓となることはまちがいありません。
では、なぜこの地にこのような五輪石がたくさん出てくるのでしょうか。研究している人の話では、ここにお寺があったのだろうということです。五輪石は仏教の墓だからです。
石の大きさやかたちなどから考えて、室町時代から戦国時代のおわりまでのものではないかといわれています。さらに、くわしく調べると、文字のきざまれた石も発見することができるかもしれません。
近長代官屋敷跡(近長)
堀坂村や田熊村を含む吉野・勝北2郡のうちの1万9千石は、1747(延享4)年から常陸国土浦藩(現在の茨城県土浦市)の藩主・土屋家の領地となりました。
最初は吉野郡下町村(現在の美作市大原町)に役所が置かれましたが、1790(寛政2)年、吉野郡1万石が没収され、近長へ陣屋を移しました。
その後、廃藩置県が行われるまで、120年以上にわたって土屋氏によって治められており、村民との関わりも、他の飛び地と比べて深かったとされています。(文:津山洋学資料館友の会 第26回史跡見学会津山に残る和算家の足跡を訪ねてより)2014年10月8日取材
小野のお通
江戸時代のはじめのころのことです。
高野押入村に、女の子が生まれました。名をお通といいました。小野は、母方の姓です。
お通は5才で、和歌をよみました。10才になると、布を織ることをおぼえ、12才で、むずかしい漢学の本がよめるようになりました。
そのうえ、とても美しい娘だったので、美作の国中で評判になりました。
16才になったときうわさを聞いた都のお金持ちが、およめにほしいともうしこみました。お通は気がすすまないようすでしたが、およめにいくことがきまりました。
津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)
津山市玉琳 南無妙法蓮華経 日蓮 高祖大士七百
享保年中開眼(1717~1731)・400年(1682)・500年(1782)・600年(1882)・700年(1982)
※日蓮(日蓮宗)生 貞応元年(1222)2月16日~入滅 弘安5年(1282)10月13日
玉琳と因幡往来
玉琳という地名は、およそ四百年前の修験者河内玉琳に由来する。
ここ玉琳は。森家の街道整備によって一里塚が設置された場所であり、また、出雲街道から因幡道が、北に分岐する場所でもあった。
そのため、幕末の不穏な情勢の中では、元治元年(1864)城下町周辺の要所八ヶ所に設置された番所のひとつが、ここに設けられていた。(2014年6月23日取材)