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取材記事内を検索ワード「山」で検索した結果,3340件の記事が見つかりました。

和歌神社(一方)

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和歌神社の由来
 美作や久米のさら山さらさらに
  わが名は立てじよろづ代までに
 今から一千余年前清和天皇が即位されて最初の新嘗祭に神に供える穀物を奉納する国として美作の国が定められた。その貢物の献進に際し美作の国歌として奉唱したのがこの歌で古今和歌集にも記されている。以後、"久米のさら山"は一躍世に出て名所となり、やがて平安時代の和歌全盛期を迎えるにおよんで久米のさら山を詠んだ歌は数少なくはない。
 和歌神社はこうした和歌の歴史の残る久米のさら山を永く後世に伝えようと修理の太夫顯季卿が美作の国を治めていたとき和歌神をここに祭り和歌の宮と称したことに始まり久米郡誌にも載せられている通りの由緒ある神社である。
 なおこの神を敬い祀れば学問が大いに進むことから今では世にひろく崇められている。(文:境内案内より)

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妙勝寺のお焚き上げ供養・年越し水行です。

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 津山市西寺町の妙勝寺に於いて、2018年12月31日午後10時から歳末報恩会。11時からお守りやお札などのお焚き上げ供養。そして、午前0時ごろから有志による水行が行われ、水をかぶり、身を清めて新年の安泰を祈る儀式がありました。今年の年明けは気温も低く寒い日となりましたが、子供たちも大人に混じって元気に水行を行っていました。水行を始めてすぐ体中から湯気がもうもうと立ち上がり幻想的でした。

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2019 徳守神社の初詣風景

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 平成31年元旦の初詣風景です。
徳守神社の初詣の参拝者は境内入り口鳥居の外に続き行列となっていました。境内ではお焚き上げの炎の近くで若者が大勢集まっています。また、おみくじやお守りを買い求める方で賑やかです。今年が皆様にとって良きお年となりますように。

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平成31年(2019)のご来光です。

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平成31年(2019)のご来光を「黒澤山 萬福寺」で迎えました。萬福寺の境内には雪が積もっていてとても寒い元旦となりましたが、ご来光を拝みに来られていた人々と一緒に2019年の幕開けを迎えてきました。今年一年がどうぞ穏やかな一年となります様にと願ってやみません。

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津山藩江戸藩邸

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津山藩江戸藩邸
 江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
 津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
 江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。

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平成30年度津山洋学資料館秋季企画展 天を測り地を測る

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 「測量」という言葉は、「測天量地(天を測り、地を測る)」という中国の言葉に由来しているとされ、江戸時代には土地をはかることだけではなく、天をはかる天文学でも用いられていました。
 測量術と天文学は、どちらも古代に中国や朝鮮半島から知識が伝来しました。江戸時代になると、西洋からもたらされた知識や技術を取り入れ、相互に影響を与えながら大きく発展していきます。
 本展では、日本で初めて実測による日本地図を作成し、測量史に大きな足跡を残す伊能忠敬の没後200年を記念し、江戸時代における測量術と天文学の歴史をご紹介します。

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水墨画家 阿部風木子氏(1923~2018)

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 墨に生きる 書・水墨画等思い出と感謝 阿部風木子
 2018年11月23日に亡くなった阿部風木子(阿部正直)氏ですが、いつかお目にかかりたいと思いながら月日が経ってしまいました。ただ生前に掲載の許可だけは戴いていましたので掲載させて頂きました。生家から生前の風木子氏の事も伺って来ました。
 岡山県美作市出身。大正12年生まれ。水墨画や書は、教育者だった父の影響で幼いころから始めた。雅号の「風木子」は、父(風木)の子だから風木子。

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正守の土居家のお墓(下田邑)

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 土居氏は河野氏から分かれた豪族で、河野水軍の系統をひき、伊予の国から西瀬戸内海では相当な力を持った勢力であったようである。南北朝期には南朝方に与して、後醍醐天皇から綸旨がくるまでの力を持っていたようである。その後も地頭領主級の豪族であった。それは河野水軍から出た村上水軍、河野氏から出た土居・得能両氏が力を合わせたことにもよると思われる。婚姻関係を見ても、それぞれ山城の城主、地頭級の家と結ばれ、中には権大納言の息女と結ばれている。311年間続いた土居氏も、長曾我部氏の四国統一、秀吉の四国攻めによって潰されていった。毛利氏を頼って神楽尾城まできたのが、土居の一族である。(文:『美作の中世山城神楽尾』より)
(2014年5月7日撮影)

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お竹明神『山西の民話』

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お竹明神
 私の家の近くの藪の中に小さな祠(ほこら)があって、水鉢や燈籠がそなわっていた。
 昔みんながお竹大明神といって、女の人が主に崇拝していたらしい。面白いことに、からす貝の大きいのを競争のようにしてお供え物を入れて供えてあった。また時には赤いべべを着せた人形が供えてあったので、確かに女の神様だったと思う。


 祖母の話では、旧の八月十五日、月夜の晩が夏祭りで、行燈や提灯をぶら下げて一晩中踊り狂ったもんだという。そのときの歌に「お竹さん、ぼんぼの毛江戸までとどくヨイショ、江戸の殿様およろこび、ヨイショ、ごほうびたくさんくだされた、ヨイショ、そりゃあ、ほんまによかったなー、ヨイショ。お竹さん、死んで三年たってから、明神様にまつられて、ヨイショ、ごりやくたくさんくだされる。ヨイショ」と、ひなびたふしの無いままの歌を歌っていたと祖母が話してくれた。
 そのお竹大明神のいわれを紹介する。

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