宗道臣 生誕の地 少林寺拳法記念館

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少林寺拳法創始者宗道臣開祖の経歴
 1911(明治44)年2月、岡山県(現美作市)生まれ。
 17歳の時、中国に渡り、日本民族の捨て石となって大陸を駆けめぐる。その間、縁あって嵩山少林寺の流れを汲む文太宗老師の知遇を得てその門に入り、各種の拳技を修得する。
 ソ連軍政下の中国東北(満州)の地で敗戦を迎える。
 敗戦直後の極限状況下で、人間の赤裸々な行動を目の当たりにし、法律も軍事も政治の在り方も、リーダーとなる「人の質」にあることを確信する。そして、真の平和を達成するためには、慈悲心と勇気と正義感の強い人間を育てる以外にないと決心する。
 1947(昭和22)年10月、香川県多度津町において、力愛不二の"教え"と自己確立・自他共楽を旨とする"技法"を中心とした、社会に役立つ人づくりの教育システムを考案して、拳禅一如の「少林寺拳法」を創始、少林寺拳法師家となる。1980(昭和55)年5月、逝去。(文:美作市発行チラシより)

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少林寺拳法記念館

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「半ばは自己の幸せを!半ばは他人の幸せを 道臣」記念の石碑

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少林寺拳法記念館 生立ちの家

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「力愛不二」の胎動となる
少林寺拳法創始者宗道臣ご母堂、ご令妹記念碑

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 宗道臣(後に改名するまで中野理男)の母光辻(旧姓)吉野は岡山県美作市(旧作東町)大内谷の人である。1919(大正8)年、夫の任地北九州で夫と死別、腕白ざかりの理男と幼い二人の娘を連れて郷里に帰る。
 吉野は病がちな身を押して代用教員や裁縫の手内職をしながら、女手一つで懸命に子らを育てた。時に厳しく、時に優しく。後に少林寺拳法開祖となる理男の天性ともいうべき慈悲心と勇気と正義感は、ほとんどこの母の躾けに依る。
 やがて病と過労に蝕まれて、吉野は1926(大正15)年5月8日、幸薄かった39歳(満37歳)の人生を閉じる。理男15歳、多感な青春のただ中であった。続いて母の後を追うように、同年8月に次妹智恵子死去、行年僅かに10歳(満9歳)。翌年4月には上の妹聰枝(としえ)死去、行年13歳(満12歳)。理男が父親にも似た想いで悲しみ庇い通した妹たちとの早すぎる別れであった。
 少年理男にとって、母や妹たちとの肩を寄せ合って過ごした逆境の時期は、心温まる愛しい日々ではあったが、同時に自らの無力さに幾度となく歯がみする無念の日々でもあった。以後、理男の生涯を貫く「力愛不二」の信条の芽生えである。

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 天涯孤独の身となった理男は、二年後中国へ渡り、敗戦時まで大陸の原野を疾駆するが、その間に一度秘かに帰国している。1941(昭和16)年1月、追慕してやまない母と妹の墓参のためであった。
 当時、母子三人の墓は木標で、吉野の実家光辻家の墓域に多くの墓石のはずれで、ひっそりと半ば朽ちていた。理男は深く悲しみ、当時としては立派な墓碑に立て直した。
 この度、この墓域の移転に伴い、墓碑に込めた開祖の強い思いを次代に遺さんがため、ここに拓して刻するものである。
 父宗道臣の愛した母と妹への熱い思いを受け継ぎ、関係各位への感謝を込めてこの碑を建てる。
2011年4月吉日
少林寺拳法グループ総裁 宗 由貴

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少林寺拳法記念館(2019年6月22日撮影)

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岡山県美作市パンフレットより