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〔谷崎潤一郎〕小野はるさんの離れに落ち着く

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昭和20年(1945) 5月15日 新聞記者で月田出身の岡成志の勧めで津山市八子の松平別邸に疎開。この間、岡氏は死去する。
6月 3日 岡未亡人から勝山に貸間があると知らせてくる。
6月 4日 土井武氏の案内で新町の小野はる氏の離れに決める。
7月 7日 勝山に着き、新町の小野家離れに谷崎夫婦と娘が入る。
後に妻松子の妹2人、松子の従兄弟らも疎開して、近くの呉服屋2階に住む。「細雪」の執筆に取り組む。原稿の写しを野崎益子女史が頼まれた。
食料の調達には福谷の須田伸治郎氏の世話になる。
中町の呉服店水島喜八郎氏と深く交流した。
下町の醤油業河本はな氏とも交際した。
8月13日 永井荷風が谷崎を訪ねてくる。15日には帰る。(疎開日記より)


旦酒店さんから伺ったお話

 勝山は水の綺麗なところで、昔は井戸水が綺麗だったので豆腐と酒を造っていました。酒屋も2軒ありましたが、今は辻さん1軒だけとなりました。それに宿も9軒ありましたが、今は寝泊りだけで2軒しかないのです。
 谷崎さんが勝山に来られたときの姿は、ボロボロの汚い着物だった。それに、沢山の原稿の入った「こおり」を大八車に積んできて近所の旅館の土蔵を借りて荷物を入れたとのこと。また、谷崎さんは金が入ったら大盤振る舞いをしていたそうで、普段は午前中執筆、午後は奥さんと川沿いを散策していたそうです。
 エピソード:小学校の教師になるために勉強していた野崎ますこさんは書が上手だったそうで、谷崎さんの書生を務めることになり、テストを受けたのですが、そのテストがユニークだったそうです。なんでも、奥さんとて書斎には上げないのですが、野崎さんを先に上らせ下からみて、足袋の白さ(足が綺麗かどうか)を見ていたそうです。勿論、野崎さんは無事合格して書生をつとめたそうです。(2012.5.10取材)


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津山に谷崎潤一郎、東山魁夷が来ていた。

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(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真

 津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。

☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!

 得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。

 また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。

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絶滅危惧種の「サカツラガン」が津山に来たよ!

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2013年1月5日の吉井川に架かる城見橋の右岸側の河川敷で、「体長60cmを超える大きな鳥、羽を広げると1m50cm位になるだろう珍しい鳥が群れていたので撮影しました。とても人なつこくて2m位まで近づいても逃げなかった。」そうです。(情報下さったのは津山市小姓町にお住まいの小川宏さん)
 詳しいことが解らないので、自然と人間をテーマに、社会的視点にたった「自然界の報道写真家」として活動中の宮崎 学さんにお問合せをしましたら、
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「サカツラガン」です。
日本には昔から渡ってきたようですが、数は少なく、近年は非常に珍しいガンになっています。今冬は、20数羽で飛来したというようなことがネット情報に流れていました。
 動物園などでみられる「ガチョウ」ですが、あれはこのサカツラガンを家禽化したものです。サカツラガンは美味しいので、世界的にかなり乱獲が進んでいるようです。
絶対的に数が少ないので、日本にやってくるのも稀になってしまったようです。
いずれにしましても、幸運な出会いをしたと思います。
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道祖谷山 宝蔵寺(津山市加茂町)

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宝蔵寺
 当寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。文化十二年(1815)頃には、無住寺で本堂四間四面南向、庫裏四間半八間、鐘堂、長屋、鎮守山王権現小などを残すのみであったが、「東西百間余、南北二百間余」の広い境内や、東林房、安養房、惣門などの旧跡が残存し、かつての大寺の面影を残していた(『東作誌』)。
二尺七寸の本尊大日如来坐像、脇立の不動明王と毘沙門天はいずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)に『東作誌』に記録されているものであろう。(加茂町史より)2012.12.13取材

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺(旧勝北町)

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺
 往昔の吉備中山は和歌題詠の名勝であった。その中山の麓山形の地に、長命山 多宝院とと唱へる修験道場があり、慶長年中津山の城主森美作守忠政が、津山城艮の鬼門除祈願所として、陣具を奉納せられたとの傳があり、現在津山市大谷の石山摩利支天も此時に祀られたとのことである。昭和年中より文化年代に渉っての住職、七代目大僧都宗春、八代目権大僧都宗栄の二代は、相続いて苦行を修し、厄難除けと併せて、女人安産に霊験顕著であった。その為め世人の崇敬を受け、隆盛の道場であったが、慶応年中には無住となり、堂宇破損ついには風の為め倒壊するに至ったのである。當時堂内にあった佛像はこれを字水原に移し、小堂を建てて保存したのであったが、寺跡は明治以降山林と化し、其後周辺は開墾されて畑となり、僅かに寺号のみが傳へられたのであった。近年に至って宗教法人法附則第五項の規定によって、県知事の認証を得、昭和二十七年十一月十三日登記手続きを完了、寺号を長命山 多宝寺と号し、旧時の遺跡である、山形東俗称宇根の地に堂宇を建立、金峰山修験本宗に所属し、住職は管長の任命によって、大阿闇梨僧都孝範が就任し、再來天下泰平万民豊楽の祈祷を執行、毎朝鳴り渡る法螺貝の音は、那岐連峰にこだまして、勝北平野の静空を流れ、八万四千の煩悩の夢を覚して居るのである。(文:新野村史より)2012.10.27取材

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小田中笠松のカウントダウン花火(年忘れ花火大会)

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2012年の大晦日~2013年の年明け、毎年恒例となった津山市小田中の「年忘れ花火大会」が、 今年で20周年を迎え、盛大に打ち上げられました。 お餅つきをしたり、そば、やきいも、お雑煮他いただき、帰るころはお腹一杯でした。冬の花火もいいものですね。お世話くださった各町内会の皆さまありがとうございました。

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楽ART倶楽部展「RAKU展」

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2012年12月21日(金)~23日(日)、津山市文化展示ホール アルネ4Fにて、楽ART倶楽部展「RAKU展」が開催され、大勢の方が楽しんでおられました。また、独特のモニュメントが会場内を飾っていてとても面白かったですよ。

 会場内には、パステル画・水墨画・水彩画・鉛筆画・油彩画などが約150点の力作が展示されていました。アートスクールの生徒さんは約9割の方が、絵を習うのは初めてだったそうです。「基本を大切にしながらも、描き方のあまり囚われず自分を表現することは重要なことです。絵画は「自分を表現する言葉」だと考えています。」と楽先生。

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津山名産の「初雪」

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 津山名産の「初雪」は、淡い甘味のあるかきもちで、火鉢を囲んでひとつひとつあぶり少しさましてから食べます。
 この「初雪」は、後醍醐天皇が、北条高時によって隠岐に流される途中に、津山の院庄で一夜を過ごされたとき里人が献上したという伝承があります。
 また、旧津山藩主松平家の資料の中から購入代金の領収書が見つかっています。
この領収書は明治17年に墓参りのため津山に来た松平確堂が、東京に帰ってから津山土産として配るために購入した時のものだということです。
 この「初雪」がお土産に選ばれた理由は、長期間保存が出来ること、軽いことだそうです。これらから、昔から初雪を贈答品として使う習慣があったのかもしれないということでした。
 明治の初めまでは数十件のお店が初雪を作っていましたが、大正初期には16軒、今では武田待喜堂1軒のみとなっています。伝統を守り続けると言うことは大変なご苦労があると思います。津山名産の「初雪」をこれからも守り続けてくださいね。(2012年6月18日取材)

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田熊 文化財を誇る八幡宮【和算の算額】

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 田熊の八幡宮は、国指定の重要民俗資料として、回り舞台があり、市指定文化財として和算の算額があることで、文化財の名をなしている。
拝殿には、回り舞台についての国(文部省)による文化財指定の額とともに、算額に対する津山市の文化財指定の額が掲げられている。
 江戸時代には、関孝和等によって、日本独自の算数・数式の学問、すなわち和算が発達した。算額は、和算独特の計算法によって難解な数学的・幾何学的な問題を解明した場合、その喜びを神に感謝して、問題と解答を明記した額を作り、神社に奉納したものである。こうした献額は、江戸時代中期から明治の半ばころまで全国的に流行したようで、今も全国各地の神社に残されている。
 もっとも、岡山県下では、井原市の岸加四郎氏の「岡山県と和算」の研究によると、算額が各地に残されているとは言っても、現存は約20ほどだそうである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)2012.1.10

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