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知られていなかった堀内三郎右衛門一家のその後

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 元禄一揆の立役者として農民の苦難を救い、義民として称えられている堀内三郎右衛門・四郎右衛門・佐右衛門三兄弟らの功績は高倉地区民に広く知られているが、所払いのお達しによって高倉を去って行った堀内三郎右衛門家の家族のことについては、処刑された4名の遺骸が高野本郷の萬福寺に葬られていること。また、離縁し河面の光井家に帰った三郎右衛門の妻お傳さんが、元禄13年に息子二人「次良.宜方」と連名で下高倉村の氏神杉森大明神(現高倉神社)に奉納した1対の灯篭(お傳さんの灯篭)があることぐらいで、その消息は殆ど知られていなかった。

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三郎右衛門の家と堀内本家
 三郎右衛門の父與左衛門保正は、惣治郎正吉(大庄屋二代目)の二男で分家していたが、大庄屋三代目の兄惣右衛門之正が早死にし、跡継ぎが幼少であったため大庄屋を継いだ。父の跡を継いで大庄屋となった三郎右衛門が元禄一揆の罪で処刑され、三郎右衛門一家は高倉を去った。この結果大庄屋職は大篠の安黒家に移ったが、堀内本家にはお咎めがなく、後に下高倉村西分の庄屋に任じられて繁栄を続けた。

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お傳さんと息子たちは、楢の地に堀内家を再興していた
 公民館活動としての「郷土の歴史と文化をたずねる会」が発足して間もない平成19年の秋、江戸時代から明治30年代まで現在の津山市楢で「大森屋」の屋号で商売をしていた堀内家(楢堀内家と云う)の出身で、大阪に在住の堀内栄三郎氏夫妻と長男の博史氏が堀内家先祖の調査のために公民館を訪問され、お会いすることができた。
 楢堀内家に伝わっている「堀内氏歴」に記されているところの「高倉上松の墓」を探すことが目的の一つで、これらの調査から「堀内三郎右衛門が先祖である」ことを確認したい気持が察せられた。上松が何処かは思い当らなかったが、私どもにとって大きな発見であった。

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 「堀内氏歴」には、堀内弥平書(天保5年)と堀内博書(昭和初期)の二通がある。後の堀内博書は、楢堀内家一族が阪神地区に分散したことで、高倉や楢のことが分からなくなることを危惧して墓地等のことを加えて息子たちに遺したもので、「高倉二猪俣塚アリ万福寺二元禄12年打首二成タル者ノ墓アリ 其後高倉上松二墓アリ宝永享保延享 其他奈良二墓地三ヶ所ヲ有ス 其頃ハ河面清龍寺二ヨリ整理ス」と記されている。

 その後、高倉の「上松」は下高倉東の「上塩」ではないかとの助言を得て、堀内博史氏が上塩の墓地をくまなく捜し歩き、楢堀内家の過去帳に記載されている墓を見つけることができた。
 楢堀内家の墓は上塩の本多勝美氏宅西の丘の上にある。堀内博史氏の調査報告書「堀内三郎右衛門の息子たちの墓についての推察」によると、墓地の北端に南に向いた堀内源右衛門(延享4年.1747没)・妻橘休也(宝暦7年.1757没)の夫婦墓があり、その西前から南に4基の墓石が並んでいる。

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 4基の中の北端が堀内源三郎(宝永4年.1707没)、次が一如眞清(俗名不詳・享保4年.1719没)と自光院妙徳尼(俗名不詳・享保6年.1721没)である。南端の墓は刻銘が判読出来ない。最後に埋葬した源右衛門夫妻の墓は三郎右衛門一家が住んでいた屋敷の方向に向いているように見える。
 堀内三郎右衛門が処刑された元禄12年(1699)と没年との関係から見て、源右衛門は高倉神社の「お傳さんの灯篭」に刻まれている「三郎右衛門の二男次良」で、結婚して一家を持ち楢堀内家を再興した。源三郎の墓石の側面には「高倉住」とあり、事件の年には生れていたので三男の「宜方」と考えられるが、若くして亡くなっている。このことから、三郎右衛門の長男は処刑された平右衛門、二男が源右衛門で、三男は源三郎。兄弟三人の名前にも整合性があり、この推察は信頼できるものと思う。

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 堀内氏歴と上塩の墓地のことから、三郎右衛門の妻お傳さんと息子たちは、お傳さんの実家光井家がある勝北郡広野庄河面村で一家を持つた後、広野庄楢村に移った。初めは堀内になる前の猪俣姓を名乗っていたが天保年間に元の堀内に改め、堀内家の再興を成し遂げたことが分かる。
 高倉神社のお傳さんの灯篭に刻まれている「光井傳 次良 宜方」3名の落着き先が明らかになり、その子孫の各地での繁栄は嬉しいことである。
 四郎右衛門については、「上塩の米井家の娘と結婚し、下高倉村東分の中庄屋を務めていたが離婚して元禄一揆に臨んだ。その妻は、四郎右衛門が処刑された3月27日に自らの命を絶ち、夫の後を追った。」との、悲しい話が伝えられている。なお、佐右衛門の家族等の消息は、聞きだすことが出来なかった。

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2013年3月21日・24日・31日取材

(文:高倉の歴史と文化財より)