山の神(原)
「春に山より下りてきて田の神になる山の神は五穀豊穣をもたらす農耕の神であり秋終りにはまた山に帰って山の神となる。」とも言われ山村に住む人たちの信仰する山の神の呼び名があり、ダンナサマ・ジュウニサマ・サガミサマ・ノタガミなどとも呼ばれている。
石造としては祠の物が多くあるが、自然石に「山神」「大山祗命」などと彫ったものが各地にもある。
「春に山より下りてきて田の神になる山の神は五穀豊穣をもたらす農耕の神であり秋終りにはまた山に帰って山の神となる。」とも言われ山村に住む人たちの信仰する山の神の呼び名があり、ダンナサマ・ジュウニサマ・サガミサマ・ノタガミなどとも呼ばれている。
石造としては祠の物が多くあるが、自然石に「山神」「大山祗命」などと彫ったものが各地にもある。
江戸期以前の楢村についての記録はないが「穴塚」と呼ばれている古墳や、十寸鏡神社のある通称「宮山」に六基の小さな円墳が残っている。
穴塚は、小足谷の北の尾根に南向きに造られた円墳で、盛り土の径18m、奥行約10mの横穴式石室を持つ。この古墳については次の記録がある。
「石室幅約六尺、高さ五尺、奥行三十五尺、巨石を以て覆われ、円丘高さ約廿尺、径九十尺、古来から火の雨塚と呼ばれている。」
西上の山形仙のふもとに天狗供養塔の石碑がある。この天狗供養塔は昔鞍馬山に住んでいた天狗(修験者)が、この西上の地に舞い降り無病息災を祈願し暮らしていた。
時が過ぎて天狗の話も薄らいでいたが、ある時土地の住民が家を建てて暮らしていると、主人が病にかかり祈祷師に拝んでもらうと「この家の下に鞍馬から来た天狗が居り、自然石で供養塔を立てなさい」とのお告げがあったと言われさっそく供養塔を建てると主人も良くなった。
天狗の命日には(旧暦一月十八日)主人が拝んでいたそうだ。また、供養塔の下には般若心経の一字一石の文字を書いた石を埋めてあるとも言われている。
金毘羅宮は香川県多度津郡琴平町に鎮座し、祭神は大物主神で、この神社は明治7年に現在の金毘羅宮となるまでは象頭山金毘羅大権現と称していた。一般庶民の信仰も深くほとんど全国的で、特に船に乗る人はこの神を厚く信仰している。
原の岩逧の金毘羅さまの石碑は二百余年前の作で、その盤座のもとに石工伊八の銘が彫り込まれている。松尾伊八は泉州の名工で多くの石碑を遺している。
金毘羅とは、梵語でクンピーラといって昔のインドの国で鰐を神格化した仏法の守護神として祀られ、江戸時代に入り航海の安全や猟師の祈願として信仰され、更に 水の神・農の神として広く信仰されるようになった。
不動明王の性格で特に際立つのが怨敵降伏の力である。右手に悪魔を断ち切る剣を持ち、左手に人を引き寄せる、あるいは悪魔を縛る羂索を持つ不動明王は、目を吊り上げ牙をむき出し怒りを表す忿怒の表情である。
不動明王の刻像は十三仏の中にも見られるが、独尊としての石仏造立が多くみられ、造形形式には不動一尊のものと衿羯羅(こんがら)・制吨迦(せいたか)の二童子を脇侍とする三尊形式のものとがある。
西下の不動明王:右手に構えた利剣、左手の風になびく羂索剣で衆生の煩悩を断ち切り索で迷える者を縛って仏道に導き、背後に猛煙が追っても動かず、不動の心を持って信仰の道を進めという仏法保護の像である。
不動明王像は五大明王の中心的な存在で、大日如来の使者となり悪を断じ禅を修し真言行者を守護する役割を担っている。
2019年2月17日に「まほらファーム」へいちご狩りに行って来ました。外は風がピューピューと吹いて寒かったのですが、ハウスの中はポカポカ陽気であったかです。一歩入ると、いちごのあま~い香りが漂って食欲をそそります。ハウスの中では沢山の家族や若者が夢中でいちごを食べていましたよ。
西今町の西に連なる西寺町の更に西に接した町で、貞享年間(1684~1688)以前は茅屋町と書かれています。
寛永以降商いを営む者ようやくここに移住し茅町と称す。しかしながら市街に属するを得ず、寛文(1661)中、安岡町の人、渡邊藤左衛門義信の請願により、始めて市街に列し、地租を免ぜられる。貞享3年(1683)茅町に改む。(『津山市史』第3巻より)
もともと茅町は、城下の東西の一番端につくられた町といわれています。東の端にも萱屋町がありました。
若宮神社は神様のお子神であり、碑に「元禄13年再建」と刻まれています。境内末社には亥子神社があり「いのこ石」が祀られています。多賀神社は長命延命の神として知られています。東側に樹齢約400年の大木のケヤキがあります。吉井川改修以前の堤防に植え付けられていたといわれています。
2019年2月10日(日) ・ 11日(月) 津山市田町の津山土岐家財団記念館にて、津山市制施行90周年記念事業「津山土岐家歴史資料展」がありました。津山土岐家から津山郷土博物館に寄贈した歴史遺産(津山松平藩士の甲冑、刀剣、書画など)数百点のうち、主な歴史資料十数点が公開されました。とても保存状態の良い品が目の前で拝見できました。
2018年12月1日(土) 2019年2月24日(日)9:00 〜 17:00まで、津山洋学資料館 企画展示室で、冬季企画展「美作地域の華岡門人」が開かれています。
紀州(現在の和歌山県)の医師華岡青洲は、1804(文化元)年、世界で初めての全身麻酔による乳癌摘出手術を成功させました。青洲のもとには、その医術を学ぼうと全国からたくさんの医師が集まりました。美作地域からも、記録に残っているだけで30人以上の医師が、青洲やその後裔たちのひらいた医塾に入門しています。本展では、華岡流の医術を学び、地域の医療に貢献した美作の医師たちについて紹介します。
主な展示資料...「華岡流外科医術絵巻」、「横山香杏一代記録」、華岡流外科器具、「乳巖図」など約30点(文:洋学資料館HPより)
江戸時代、森忠政公の時代の津山城下の一町で武家地でした。
当時は鉄砲組の足軽を置いたことから西鉄砲町といわれました。後に東鉄砲町は中之町に編入されたため、鉄砲町となり現在に至っています。家臣が砲術修行の射撃をするのは、鉄砲町に南土手の東側で、藺田川と吉井川の合流付近に大砲場が有り、五町場とか鉄砲場と呼ばれていました。これは、吉井川を越えた南岸の大谷村石山の着弾点の距離が約5町(約540m)あったからと言われています。松平藩になってから、大砲場を更に西に寄った土手から、12町砲術修行の射撃がありました。町には、鉄砲製造の技術者すなわち鉄砲師がいて、修理から製造まで行っていました。鉄砲金具師や鉄砲台師もいました。松平藩時に召し抱えられた鉄砲師が作った火縄銃や馬上筒(短銃)の逸品が現存しています。また紙漉屋があり、備中の漉工を雇い、松平家の檀紙奉書を生産していました。