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福力荒神社

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福力荒神社(津山市福力130番地)2011年6月25日取材 ★2008年の福力荒神社大祭取材記事

祭神 素盞鳴尊
祭礼 
・天和2年 祭日9月9日 社人 横林常陸
 現在   旧正月大祭(1日・2日・3日) 春季大祭 4月20日
       夏季納涼祭 7月 秋季大祭 10月 新嘗祭・冬至祭 12月
・代表的な祭礼
・旧正月の3日間は午前10時から神事が行われ、巫女による浦安の舞、豊栄の舞も奉納されます。3ケ日には安産・蝮除け・学業成就など願う10数万人もの参拝者で賑わい、参道には200軒もの露店が立ち並びます。
・秋季大祭は、神事に続き傘鉾の行列が組まれ太鼓などを打ち鳴らしだんじり・神輿も御旅所への御巡幸があり盛大に執り行われます。
主要建造物 本殿 幣殿 拝殿 社務所 鳥居 狛犬 碑
宝物 山口彦左衛門の奉献太刀 環頭太刀(創建600年記念)
御利益 蝮除け 子授け 安産 家内安全 学業成就 交通安全 商売繁盛 良縁等

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可愛い顔の「C11-80機関車」です。

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C11-80機関車の概要(2011年7月1日取材)
製造月日 昭和10年3月30日
廃車月日 昭和50年1月24日
製造場所 日立製作所笠戸工場
運転線区 昭和10年4月19日 予讃本線(松山機関区)
     昭和19年4月3日 芸備線(三次運転区)
     昭和23年7月8日 津山線(津山機関区)
     昭和48年4月11日 只見線・会津線・日中線(会津若松運転区)
運転キロ 1,751,397.8キロメートル
由  緒 本機は、ディーゼル車両が多用化されるまで、支線の短区間旅客列車用に造られた、代表的なタンク機関車で、昭和23年7月から津山機関区に配属され、24年間県北部において、戦後復興の担い手として客貨輸送のため走り続けて来た。その間、昭和37年10月の岡山国体には、お召し列車を、昭和46年3月津山線ディーゼル化の際は"サヨナラSL"の牽引機として、地域住民に親しまれた機関車である。
 しかし、動力近代化の波におされて、陸奥の会津若松にてその生涯を終える。
参  考 長さ 12.65メートル 幅 2.83メートル
     高さ 3.90メートル
     重量 (積車)66.05トン (空車)51.90トン
     最大許容時速 85.0キロメートル(案内板より)

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川港が栄えた町楢の今

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▲多胡酒店裏側(2011.6.14)↑写真提供:多胡益治さん

津山城をつくった森の殿様の頃から、高瀬舟がこの辺りまで来ていました。「川を下って西大寺」という、はやり言葉があったほど、ここから米やまきや穀物を積んで西大寺まで舟が行きかっていました。

ここの船着場は、舟から人や荷物のあげおろしをすることができやすいように、きちんと整えられていたそうです。そばに立つ高灯籠(たかとうろう)からは、当時の人々の願いがわかります。

「金比羅大権現」・・・航海が 安全でありますように

「天照皇太神宮」・・・天気が おだやかでありますように

「木山牛頭天王」・・・悪い病気が はやりませんように

「中山太神宮」・・・この土地が 栄えますように

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楢船着き場跡の常夜灯

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楢の常夜灯沿革 (津山市楢字下浜37番の2) 2011.6.14
 初代津山藩主森忠政は高瀬舟による吉井川の舟運を開いた。支流の加茂川においても、因幡往還との接点である楢村に舟着き場を設けて年貢米等の積み出しの便を図った。施設は石雁木、荷揚げ場、米置き場、詰所、などがあった。建設に当たっては護岸に川石を用いず、近くの鷹山の中腹の岩石を切り出して石積みを行った。
 楢村が幕領に移されてからも、川湊としての機能はますます重視された。勝北地域の幕領の年貢米の積み下げの重要な河岸とされ、吉井川流域では最も多く積み出した。
 諸物資の流通もまた盛んになり、楢村は周辺地域の物資の集散地として多くの人々で賑わった。因幡往還の両側に日用雑貨や食べ物の店などが並んで在町を形成し、大商い・小商いの商業活動が活発に行われ、やがて、大商いは城下の商業と競合するまでになった。
 また、舟運による情報や文化の流入、商業活動の活発化等は村人の意識に多大の影響を与えた。商業活動の確保や米置き場問題、化政期からの私塾経営等特徴ある活動が行われている。
 文化元年、津山藩領に編入時、楢村の商業活動は曲折の後藩から追認され、以後明治にいたるまで楢村は在町として発展を続けた。
 幕領時支配の変更のたびごとに発生した米置き場問題も、楢村が津山藩に編入された際には困難を極め、ついに訴訟するに至った。そして、文政11年になってやっと解決した。
 天保9年、村人はこれらの問題の解決を喜び、村のいっそうの発展を願って常夜灯を建設した。こも銘文から建設の寄付集めや諸世話・石集めから石工にいたるまで、村を挙げての取り組みであったことが伺える。

(文:多胡益治さん)

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津山市(旧勝北町)の宝篋印塔

zenmen.jpg宝篋印塔(2011.6.12)
 宝篋印陀羅尼経を安置すると、三世一切の諸仏の全身舎利を奉蔵するものと信じられて作った塔を宝篋印塔という。基礎・塔身笠・相輪の部からなり層段を刻み、四隅に飾突をもつ笠部が特有である。また塔身に四仏梵字を刻し基礎の側部に年号等を記銘しているものがある。もともと供養塔であったが後には墓塔としても用いられたようである。
 勝北町では数多く発見されているが笠部のみであったり相輪のみであったりするものが多い。ここ工門の宝篋印塔は康永2年という南北朝時代の紀年銘があり、岡山県でもすぐれたものであるといえる。「沙弥」「比久尼」の文字は判読しがたい。

勝北町教育委員会
勝北町文化財保護委員会

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「和時計-江戸のハイテク技術」展

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1F特別企画展のご案内

○ 「和時計-江戸のハイテク技術」展
2011年5月28日(土)~2011年6月26日(日)
鉄砲の伝来とともにヨーロッパから日本に伝わったものに機械時計があります。
江戸時代、季節により一刻の長さが変化する「不定時法」に合わせて作られたのが和時計です。
和時計のもつメカニズム、素材、意匠などは、現在の日本の「ものづくり」につながる「江戸のハイテク技術」でもあります。今回は、時の記念日にあわせ、和時計の持つ美しさや魅力を存分に楽しんでいただける企画展です。

ギャラリートークも予定しています。
6/5(日)13:00~ 和時計の所有者である安藤正道氏による和時計の解説
M&Y記念館1F展示室にて(入館料500円が必要です)

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いよいよ発売!「ホルモン女」映画上映会チケット

 「その町で完結できる映画はそうそうあるもんじゃない!」映画製作関係者の方が言っていた言葉に、この映画の価値を感じます。

   

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▲チラシ表(↑ぽちっ!)

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▲チラシ裏(↑ぽちっ!) 

沖縄映画祭」に出展する「ホルモン女」の記者会見場にて

【特に印象的だったのは?】
山下リオさん:
クライマックスシーンで、おもてなし料理を決めてもらうシーンです。撮影するとき地元の人が200人位盛り上げてくださって迫力のあるシーンになっていると思います。とにかくご覧になっていただけば、迫力ある映画になっています。

河本準一さん:リオちゃんとのシーンは上司と部下なのでほぼ一緒にいるシーンが多いのですが、僕の顔を見て爆笑するんです。失礼だとおもません?少しのギャグでずっと笑ってくれるのが嬉しくて。
審査員を目の前にして感想をもらうのですが、審査員の一番右端の人が映画の撮影じゃないところで「まずっ!」といったセリフが何よりめっちゃうまくて「まずっ!」と言ったのがずっと残っていました。
地元の人がお弁当を提供してくださったり、本当にアットホームでみんなで作っている映画だった。

遠藤光貴監督津山に関わらしていただいて、居酒屋カルチャーで知らない干し肉とかあり、東京でも流行るんじゃないかと思います。
山下リオさん:第二の地元にしたいくらい大好きになりました。こんな素敵なところがあるんだと多くの人に見てもらえるのが嬉しいです。

河本準一さん:全国の市でまだまだ知られていない素敵な町がいっぱいあるけれど、その中で津山がこれを皮切りに全国へ発信できたらなぁ~と思います。元気よくパワーが与えられる映画になればいいなぁ~と思います。

 同時上映

[第3回沖縄国際映画祭出品

作品]津山市姉妹都市:沖縄

県宮古島市作品 一粒の種

~真太陽の島の大合唱~

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   「橋野食堂」撮影風景 「三枝」焼き方の練習風景
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 「水島食堂」撮影風景  「津山市役所」撮影風景  「吉井川河川敷」撮影風景
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 「総合福祉会館」撮影風景  「鶴山公園」撮影風景  「高倉」撮影風景

 

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河辺上之町(桝形)津山市指定史跡

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河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
 津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。

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荒神山城跡(市指定史跡)

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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)

荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
 本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。

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倉見川の広瀬橋附近のホタル生息地

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▲倉見川広瀬橋付近(津山市加茂町宇野)(2011.5.18)

田植えの終わった田んぼもありましたが、あちらこちらで田植えをしておられました。ここはとてものどかな所で、お訊ねした皆さんも穏やかな方達でした。地元の方にお訊ねすると、「ホタルがわんさか出るときもあるが、今年はすでにダムの放流があったので流されているかもしれない。」とのことでした。

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