文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩くNo.2)
2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。八幡神社から続いて向かったのは、西賀茂神社(杉さま古墳群・ナナミノ木)→苫勝霊場78番と石造物群→成名公民館駐車場までです。
2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。八幡神社から続いて向かったのは、西賀茂神社(杉さま古墳群・ナナミノ木)→苫勝霊場78番と石造物群→成名公民館駐車場までです。
堂内には、弘法大師と袖捥観音を祀っています。堂の表には3っの表札がかけられています。
【勝南霊場第18番観世音菩薩(白札)】
高野山支部勝南祈四国18番霊場(木札)
勝田西国 第12番(木札)
この3種で、霊場巡りは、明治20年(1887年)頃から盛んになりました。
昭和10年(1935年)頃でも、先達を中心として白衣姿の巡礼が札所を巡っていたのが見られ、札所近くの人が接待や仮宿をしていました。この巡礼めぐりの創設は、718年頃と言われています。
【由来】文久元年(1861年)、辛酉の年のこと、殿さまは松平慶倫公で、前年には徳川幕府の大老井伊直弼が水戸浪士に討たれるという大事件【桜田門外の変】がありました。
第82番札所 弘法大師(西吉田)大師堂 昭和44年10月4日建立
勝南霊場札所は、四国霊場の八十八ヶ所をこの勝南郡【新田、池ヶ原、福力、中原、里中原、名坂、植木、金井、西吉田、旧広野村、旧河辺村】に八十八ヶ所を作ったものです。
第1番札所は、新田の公会堂の前に駐車場があります。以前、そこは宅地で家があって、屋号は荒神堂、そこが始まりでした。第2番札所は、以前、福井照夫氏宅の屋敷内にありましたが、現在、本尊は第八十八番に移しています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)
光伯様納涼祭【勝南霊場30番札所】
光伯地蔵堂は、出羽国湯殿山本道寺の修行僧が六十六部の経典を納めながら諸国を巡っていましたが、西吉田村で亡くなってしまったとのことです。村人が街道沿いに葬ったところ、その後墓に参ると、足の病が治るとの言い伝えが広まり、美作近郷を始め、亰、大坂からも人々が参るようになりました。現在、平成3年に建て替えられた新しい地蔵堂に安置されています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)
茶屋林道標(勝北町杉宮) 町文化財(石造物) 昭和50年4月1日指定
茶屋林の旧国道沿いに立っている道標で、南面に 右金森山新善光寺道、西面に 左いなばみち、東面に 宝暦四(1754)五月吉日造之 と刻まれている。
高さ85㎝ 巾17cm~18cm
この道標のかたわらに、一本の根上りの大きな松があったが、マツクイムシの被害をうけて枯れる。
むかし、津山から、勝北、奈義の村むらをとおり、黒尾峠を越えて鳥取に行く道は「因幡街道」と呼ばれ、このあたりは、街道を往来する人びとの憩いの場所でもあった。
津山市平福の国道53号線沿いにおられる日限り地蔵です。この地蔵は部落の境にあったので、二つに分けて祀られているそうです。「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まり、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになったと言われています。軒先には中部第81番霊場(第79番札所)と書かれています。誰が手向けたかはわからないが千羽鶴が飾ってありました。(2017年9月30日撮影)
旧勝北町の苫勝霊場第78番(本尊:地蔵大菩薩)いつも通るたびに気になっていた霊場です。
ご近所の土井さんにお聞きすると、旧勝加茂村の時はこの地区を下村と言っていたそうです。ここの霊場は昔から大勢の人が霊場めぐりで参られていたそうですですが、今は誰もお参りする方は居られないそうです。(撮影:2014年7月6日)
笠場山福聚院 普門寺 縁起
木版略縁起によれば、「作州真嶋郡笠場山普門寺は往昔弘仁七年(816)吾弘法大師始めてこの山にあそび精修勤念したまう時に、祥瑞嶺上にあつまり閃光渓道に映ずるを観て、師深く求法の勝地なる事をさとり、ついに即ち本尊聖観音、不動、毘沙門の三尊並びに仁王の像を彫刻し、伽藍僧舎を草創して秘密瑜伽の道場をおこしたまう。しかるに、去る乱世の頃、仏閣ことごとく兵火に炎焼するといえども、彼の尊は泥中に入りて焼失したまう事なし。まことに上求菩提下化衆生の尊像なり。」とある。
当時、普門寺周辺には、松本坊、一乗坊、中坊、新蔵坊の他数十戸の民家があり、耕地が開けていた。当山鎮守として、熊野三所権現を歓請し、北に大山を遙拝して信徒諸地より雲集していた。なお、本堂は寿永二年(1183)春、享保八年(1723)に再建され、辻氏安兵衛秀勝氏によって再建された記録もあり、現在の建物は、明治二十八年(1895)秋に再建されたものである。
常内に安置されている龍の彫刻(干ばつ時雨乞いの祈祷に用いた)は元禄二年(1689)当時の欄間である。(文:石碑より)(2017年5月14日取材)
勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)
四国靈場八十八ヶ所の開基
当時の四国霊場八十八ヶ所の勧請は、時の住職英傅和上により天保2年より7年がかりの天保9年(1839)正月に開基されたもので、一番札所寺阿波の靈山寺より八十八番札所寺讃岐の大窪寺に至る各札所寺の夫々の本尊像を現地の四国に於て石像に刻み当時寺まで運んだと言う誠に大掛かりな大事業であった。この勧請に参じた施主は、檀家を中心に近郷の篤信者を加え、各寺毎の施主名は石佛台に刻記されて、本堂前より金森山、城山の外周を巡り約1.5粁に渡って配置されている。この外に番外の堂宇が加わり一百余堂となり、今回の記念事業の一環として再整備されたものである。(文:現地案内板より)(撮影:2017年7月15日・8月12日)