覚鑁山 遍照院 宇南寺(真庭市)
当山は行基菩薩の開山で、元は雲南寺と号していました。弘仁の年間、嵯峨帝の勅願所となり、鎌倉府より寺領七十石を賜りました。
元弘の変(一三三一年〜)に、後醍醐天皇が隠岐の国へ御遷幸の際に、御幸宿せられました。
本堂内に明和又太郎長年の遺墨があります。
境内には大永七年(一五二七)に建立された、先住十五代の宝篋印塔があります。
(美作八十八ヶ所霊場 第50番札所 )
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年12月4日撮影)
当山は行基菩薩の開山で、元は雲南寺と号していました。弘仁の年間、嵯峨帝の勅願所となり、鎌倉府より寺領七十石を賜りました。
元弘の変(一三三一年〜)に、後醍醐天皇が隠岐の国へ御遷幸の際に、御幸宿せられました。
本堂内に明和又太郎長年の遺墨があります。
境内には大永七年(一五二七)に建立された、先住十五代の宝篋印塔があります。
(美作八十八ヶ所霊場 第50番札所 )
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年12月4日撮影)
当山は、天長年間(824~)に、弘法大師御開創の霊域と伝えられたお寺です。
万治3年(1660)、当山中興快英上人の手によって再建され、仏師を乞い本尊を建立しました。胎内には、大師御製作の塑仏頭面を納めています。
地元の丹波六郎兵衛を願主として再興され、その折、木像の弘法大師像を金剛寺(現愛染寺)より寄進されました。以後延享年間(1744~)に、宥善上人により当山は中興されました。
近年、本堂・客殿・庫裏を再建し、現在に至っています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月2日撮影)
当山は室町時代、山久世地内にある北谷寺屋敷に建立されました。その後、門所切尾峠手前に移築され、椿山一乗寺と号しておりました。天文23年(1554)に同寺を廃して慈雲山密乗寺と改名し、現在の地に移築されました。
ご本尊は、聖観世音で御徳は産授乳子育ての観音様として、近郷近在より参拝者が多数ありました。本堂の周りには、奉納されています手作りの乳房が多数吊るされていましたが、昭和27年本堂一部改修の折、いくつか浄焼されました。
至孝滝にある奥の院横には、不動明王が祀られており、毎年春にはお祭りがあり、多数の参拝者があります。参道には、四季により山つつじやシャクナゲ、秋は紅葉など色とりどりに包まれて、自然豊かな一帯です。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年12月4日撮影)
瑠璃山 勝功徳院 蓮花寺(れんげじ)
天平10年(738)に開山されるも、度重なる兵火による消失、その後再建を繰り返し今日に至ります。延宝2年(1674)、今より少し上の御堂ヶ岡より現在地に移し、安政3年(1856)石垣等境内が完成しました。
「御堂ヶ岡より四方を眺めて山形あたかも八葉の蓮花に彷彿たりの故に寺号とす。本尊薬師如来の霊験効しきにより、瑠璃光如来の義を執りて山号となす」といわれています。
昭和62年、現在の本堂、庫裏を建立しました。平成3年梵鐘を新鋳し、併せて石段の改修、四国八十八ヶ所霊場の整備を行いました。
この石段は山門までの33段、さらに本堂3段、鎮守堂6段を参拝することによって、男女の厄除けを祈願する階段となっています。昭和9年大師入定1100年御遠忌を記念して、蓮花寺の裏山一帯に寺や集落を取り囲むように四国八十八ヶ所霊場を勧請し、遍路道が開創されました。その後、耕作放棄地の増加に伴って遍路道の荒廃が進み、参拝が困難となったため、寺の東方市道沿いに集祀して巡拝の便を図ることにしました。
本堂の裏山を利用した、江戸前期の技法による枯山水の庭園があります。枯れ滝の滝口には仏教的思想が取り入れられた三尊石があり、その中心は不動石となっています。また泉水には長寿、吉祥を表す生き物とされている鶴、亀が石組によって表現されています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
天龍山 慈眼院 遍照寺(へんじょうじ)
古くから境内を含む地域を寺土居と呼ばれていました。その昔より一庵がありましたが、明治初年になって廃寺になりました。しばらく荒廃していましたが、この因縁を深く感じたた井上隆忍尼僧により、昭和8年8月8日、美作遍照教会として設立されました。
以来、弘法大師の霊場として、近隣の地域の方々から親しく「山口のお大師さま」として信仰されています。
ご本尊の弘法大師さまは、今にも立ち上がって私たちをお救い下さる、そんな様相をされています。参拝される方々に等しく平安で、心安らかに暮らせるよう導いて下さるお大師さまです。
昭和33年5月に、遍照寺として名称を変更し、現在に至っています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
慈恩山 寶積院 普門寺
当山は、承久2年(1220)に、僧快運によって開創されたお寺です。
初めは峠村(現在の美作市川北)にあったと伝えられ、また、市内藤生字宮の向こうにも普門寺の碑が数基残っています。元禄10年(1697)の記録には、川崎邑慈恩山普門寺云々とあります。これからみますと開基以来、盛衰を繰り返し、峠村から藤生を経て、川崎(現在の美作市江見)へ三転したものと思われます。
本堂は、寛延2年(1749)に中興し、明治34年に再建されていましたが、平成17年に本堂に位牌堂を併設したものを新築し、周辺設備を終えました。
庫裡は昭和55年、客殿は昭和12年、鐘楼は明治2年に再建、鐘は昭和21年に再鋳したものです。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
松栄山 長正寺(ちょうしょうじ)
本堂の峻険な屋根が目を引きます。
元々当所には、鎌倉時代中期に建立せられた比丘尼寺があり、桃山時代初期まで近くの大庵寺、後釈寺と並んで繁栄していました。
天正7年(1579)、三星城主の後藤勝基が戦火に追われ大庵寺で自刃し、家臣の浮川将監も後を追って殉死しました。その妻が勝基と将監を弔うため、出家し理月妙智尼となり、焼失した大庵寺、後釈寺を取り立て、松永山長正寺を興したといわれています。その子勝吉も出家し、僧慧心となり、住職となりました。
本尊聖如意輪観音は行基作といわれ、脇立の阿弥陀仏、不動明王、毘沙門は同じく行基、あるいは慧心作といわれています。
例年8月18日夕に、施餓鬼供養祭とともに、大数珠回し、盆踊りが行われ、地域の老若男女により賑わいます。
近年檀信徒の切なる願いをもって、長寿ぽっくり観音を祀り、10月の末の日曜日に、大祈願祭を行っています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)
永慶山 寶持院 光明寺
当山は、天平15年(743)に行基菩薩によって、当時の勝北郡矢田邑高岸(現在の美作市矢田)に開創されました。承元2年(1208)に、現在の美作市和田(当時の勝南郡和田村)に移転しました。
矢田高岸の寺跡には、池や井戸などがあり、今でも当時の面影を残しています。
当時の山号は、随喜山と称していましたが、後に永慶山と改称しました。
熱心な檀信徒の厚い信仰と菩提心により、平成13年の本堂に引き続き、23年の庫裡と、次々に伽藍が整備されました。近隣に類をみない荘厳・雄大な建築です。境内には樹齢250余年の山茶花(白色)の古木があり、裏庭には樹齢30~40年の藪椿(樹高5~6m)が約200本あり、満開時は見事です。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
土師山 無量壽院 圓福寺
寺伝によると、天平11年(739)に行基菩薩が聖武天皇の勅により開創、自ら一刀三礼の本尊無量壽如来と観音・勢至の脇仏を刻み安置されました。
住古は、堂塔伽藍の整った大刹でありましたが、戦国乱世に兵火により、そのすべてを失いました。
十六世紀の中頃、宇喜多直家の時代に再興され、ほぼ旧容に復興されましたが、明和5年(1768)並びに明治2年、火災に遭い、明治初期以来再建され、昭和59年に本堂、平成10年に庫裏・客殿が建立されました。
四国八十八ヶ所霊場
境内より、約八百メートルで一周できる、四国八十八ヶ所霊場を平成12年に開創しました。各札所のご本尊を舟形の石造仏にしてお祀りしています。
山中ですが、道中に芝桜や紫陽花等の草花や桜・紅葉を植樹し、修行大師もお祀りしています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)
岡尾山 普門院 真休寺(しんきゅうじ)
行基菩薩の開祖といわれる真休寺は、初めは現在の美作市大山の山頂にあり、大山普門院といいました。しかし天正7年(1579)戦火に遭い、現在の所在地の美作市位田に移りました。
初代院王は隆伝上人といい、明暦年間に住坊を造営、岡尾山普門院真休寺と名付けられました。
昭和49年、檀信徒の篤い信仰心により本堂・庫裏の再建がなりました。その後も大師堂・山門・庫裏建立と整備が進み現在に至っています。
境内には桜、紫や白の藤、紫陽花、石楠花、紅葉が植えられ、花の寺として四季折々を彩ります。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)