取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「下高倉西」で検索した結果,22件の記事が見つかりました。

樫風呂様と阿弥陀堂 (下高倉西字堀井)

樫風呂2.jpg

 堀井会館から西になだらかな坂道を行くと、家並みの途絶えた左手前方に、真新しい鳥居が見え、開けた所に樫風呂様の社がある。かつては大きな樫の木があったが、その下に広い風呂のようにくぼんだ所があり、堀井組合ではここでお籠りをしていた。その後方に白壁の阿弥陀堂が見える。ここは「本尊薬師如来 苫勝第七番霊場」となっており、堀井では昭和30年代まで、巡礼にくるお遍路さんの接待をしていた。阿弥陀堂が老朽化したため、堀井組合で浄財を出し合って、平成8年に改築し今もねんごろに祀っている。

樫風呂様と阿弥陀堂 (下高倉西字堀井)の続きを読む

寄松神社の遺跡碑(下高倉東字寄松)

石碑1.jpg

寄松神社の遺跡碑(よりまつじんじゃのいせきひ)

 寄松の木多克雄宅の北方、下高倉東と下高倉西の境を通る畝道に面した山の中に村社寄松神社の遺跡碑がある。

 碑の右側面に記された碑文には、「本社は人皇七代孝霊天皇の御宇(ぎょう)36年(紀元前255年)に紀州熊野神社から諾冊二命(伊弉諾・伊弉冊命)を勧請(かんじょう)し祭神とす」 「氏子20戸之を崇拝、明治44年5月20日改称した高倉神社に合祀」とある。氏子は寄松組合(合祀当時19戸)が主体と推察できる。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

寄松神社の遺跡碑(下高倉東字寄松)の続きを読む

長者池物語(下高倉東)

agefune_ike.jpg

長者池跡 右上の団地のところに堤があった。

 下高倉東の字長者池がその場所です。下高倉西の字長者池の丘陵と飯山山塊(さんかい)が接した所、下高倉西グリーンタウンの北側に堤がありました。北の端については、揚舟から後山に通じる一宮街道の北側の出張川(でばりがわ)から東が字揚舟で、西側の丘陵が字池峪、一宮街道の南の広い田んぼを「池ノ内田んぼ」と呼んでいることから、北の端はこの一宮街道あたりまでで、南北800mの大きな池であったと思われます。
 長者久作が住んでいた時代から400年後の宝暦5年(1755)に、長者池を廃して代わりに飯山池を造った記録がありますので、北の方が埋もれて水田に変わり狭くなった長者池(現在の字長者池内)が、この頃まで山西村の灌漑(かんがい)用水池として役立っていたことがうかがえます。
(2013年3月21日・6月13日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

長者池物語(下高倉東)の続きを読む

市場蟹子川沿いの堀内家墓地-大庄屋代々の墓-

さくら堀内.jpg

 下高倉西市場の景山典子氏宅北側の蟹子川岸に堀内本家所有の墓地がある。石組みによって築いた台座の上に、南から五輪の塔が4基、蘭塔墓、位牌墓、蘭塔墓と7基の墓が並ぶ格式の高い墓地で、五輪の塔は欠けた部分があるが、蘭塔墓2基はよく保存されている。

市場蟹子川沿いの堀内家墓地-大庄屋代々の墓-の続きを読む

故金谷夫婦顕彰碑(下高倉西)

t3.jpg

故金谷夫妻顕彰碑(2013.2.19)
 金谷雅一氏(1883-1979)は下高倉西の西尾に生れ、明治37年(1904)、新天地での農業に夢を託して渡米し、農業等で苦労するなかで洗礼を受けた。戦後、「福音を郷里に」と、昭和29年(1954)に一時帰郷し、地域の協力も得て、高倉に教会と付属幼児園を開設した。
 昭和36年(1961)に、国から認可されるまでは園の経営を援助し、「高倉ひかり保育園」の基礎を築いた。現在保育園は、高倉地区や近隣からも多くの幼児が入園し、保育や幼児教育に大きな役割を果たしている。

故金谷夫婦顕彰碑(下高倉西)の続きを読む

岡隅神社旧跡碑(下高倉西字岡隅鼻)

ten0.jpg

岡隅神社旧跡碑(2013.2.14取材)
 岡隅神社は高倉神社に合祀されているが、この旧跡碑は"御食事処たかくら"の北方にある天王山の麓にある。碑には「岡隅神社之旧跡碑 明治42年2月11日合祀 西尾有重旧氏子中」と刻まれている。なお、東作誌には「岡住大明神西分苦屋(若屋)にあり 西分の氏神 本社四尺五寸四方 南向拝殿 一間半二間 鳥居木 社地 二反分」と記されている。(文:高倉の歴史と文化財より)

岡隅神社旧跡碑(下高倉西字岡隅鼻)の続きを読む

寂静山 教本寺跡(下高倉西)

kyou8.jpg

寂静山 教本寺跡
 下高倉西二区公会堂から北北東に約200mのところに「宗祖見眞大師650回忌法要記念碑」がある。この道を隔てた北側が教本寺の跡地である。寂静山教本寺は天正2年9月(1574)に真言宗備永寺として建立された。
その後、享保14年(1729)、備前守右近正広入道の時代に浄土真宗に改宗された。明治26年、12代導隆のときに本堂が再建され、13代導徹も引き続き寺院の整備につとめ門徒数も増加した。当時お寺の縁日には地元の高倉をはじめ、遠方からも大勢の参拝者が続き賑わっていた。

寂静山 教本寺跡(下高倉西)の続きを読む

和加美神社(下高倉西宮前)

w4.jpg

和加美神社(わかみじんじゃ)
 水嶋隆之宅の東側のお宮が和加美神社で、地元では「ワカミヤ様」と呼んでいる。延享4年(1747)、高倉に米井庄助という人が生まれ、幼少より利発で学問や俳諧等に優れ、村内はもちろん近隣地まで有名になり、学問を教えていたが47歳で病没した。明治14年、神としての格式を賜り和加美神社が建立された。(2013.2.20)(文:高倉の歴史と文化財より)

和加美神社(下高倉西宮前)の続きを読む

高倉神社前の地神様(下高倉西字宮前)

高倉の地神.jpg

地神様
 高倉神社の前に自然石に「地神」と深く刻み込んだ地神様がある。地神様は土の神で農民を守り稲の生長を助け、豊かな実りをもたらす農業の神として祀られている。地神様の祭りは春、秋の彼岸の中日に近い戊の日にあたる社日に行われ、この日は農作業を休むことになっていた。建立年代は刻まれてないが、天保から明治末年にかけて各地で建立されている。現在は高倉神社の祭典にあわせて祀っている。
2012.12.16取材(文:高倉の歴史と文化財より)

高倉神社前の地神様(下高倉西字宮前)の続きを読む

首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)

kubikiri1.jpg

首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)
 広域農道ができるまでは、岩端池から一宮街道を西に行き坂道を登った峠の上に首切り地蔵があった。この道は高倉から津山に行く主要な道路であったが、高倉の道は雨が降るとぬかるみとなり、ここで泥を落とし一休みして、お地蔵さんを拝んで通っていた。1982年、広域農道建設に伴いお地蔵さんは少し移転され、現在谷口家の墓所の一角にねんごろに祀られている。(文:高倉の歴史と文化財より)2012.12.16取材

首切り地蔵 下高倉西字輿曽乢(よそだわ)の続きを読む