長者池物語(下高倉東)

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長者池跡 右上の団地のところに堤があった。

 下高倉東の字長者池がその場所です。下高倉西の字長者池の丘陵と飯山山塊(さんかい)が接した所、下高倉西グリーンタウンの北側に堤がありました。北の端については、揚舟から後山に通じる一宮街道の北側の出張川(でばりがわ)から東が字揚舟で、西側の丘陵が字池峪、一宮街道の南の広い田んぼを「池ノ内田んぼ」と呼んでいることから、北の端はこの一宮街道あたりまでで、南北800mの大きな池であったと思われます。
 長者久作が住んでいた時代から400年後の宝暦5年(1755)に、長者池を廃して代わりに飯山池を造った記録がありますので、北の方が埋もれて水田に変わり狭くなった長者池(現在の字長者池内)が、この頃まで山西村の灌漑(かんがい)用水池として役立っていたことがうかがえます。
(2013年3月21日・6月13日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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一宮街道から上る

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一宮街道が見えます。              揚舟の境

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一宮街道                       長者池

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後ろには高倉ゴルフ練習場のネットが見えます。  那岐山も見えます。


長者池物語(ちょうじゃいけものがたり)
後醍醐天皇の時代、美作国が山名・赤松の争いによる戦乱で荒れていた延文年間(1356~1361)の頃のことです。高倉に山名の庇護(ひご)を受けた金貸しの稗田久作(ひえだきゅうさく)という長者(大金持)がおりました。大変美貌(びぼう)の一男一女があり、屋敷の前に大きな池を造り舟を浮かべては豪遊をしていましたが、あるとき来宅した旅の僧に金や珍宝(ちんぽう)の空しさを説かれました。これを聞いた久作は家財・金銀を捨て、作東の吉野郡(美作市)で世を忍ぶ生活を始めました。一男長五郎を勝南郡間山(ノースビレッジの北の山頂)の学坊に出し、自分はざるを毎日3個長女に売らせて生活の糧としていました。


 ある時、久作の妻が病気になり、しかもざるが3日も売れませんでした。娘はなすすべもなく家に帰るその路でお金1貫文が落ちているのを見つけました。拾って帰るのは良くない。しかし、このままでは父母は餓死すると思い悩んでざる9個を置き、その値だけのお金を持ち帰りました。しかし、久作にすぐ返すよう言われた娘は悲しくも元の場所に返しに帰ってみると、両親は飢え死にしていました。娘は悲嘆にくれ、しかたなく尼になるべく心に決めて弟のいる間山に行くことにしました。


 間山の長五郎は学問に励んでいましたが、播州赤松一族某もここで学問をしていました。この赤松某は美貌の長五郎が自分の思い通りにならないので事あるごとにつらくあたり、源氏物語の読み方についてわざと嘘を教えました。それとは知らぬ長五郎は、客人の前でこの間違った話をして一座の笑いものにされました。はかられたと知った長五郎は、この恨みを晴らすべく太刀を隠し持ち毎夜赤松の寝所をうかがっていました。


 古歌に「初霜の染め残すらん もみじばの むらごに見ゆはした山かな」と詠まれている間山を訪ねた姉は、赤松某に上人への面会を頼みました。赤松はこれぞ美貌で聞こえた久作の娘と思い、戯(たわむ)れようとしましたが拒否されたので、「もう夕方なので明朝まで待つように」と娘に言い自分の寝所をあたえて、自分は外で寝ました。


 一方そうとは知らぬ長五郎は、赤松某の寝所に忍び入り日頃の恨み思い知れと胸元を刺し通し首を取り、灯にかざして見るとそれは最愛の姉でした。長五郎は嘆き悲しみ師の前に出てすべてを告げ、出家することを願い出ました。師に諭されて「明賢」(めいけん)という法名を貰い諸国修行に出ましたが、後にふる里高倉の寄松山多聞寺に帰り住職となったと言われています。


 明徳2年(1391)に赤松氏が山名氏を退けて守護となると、山名氏建立の寺社が破壊されることを聞いた明賢は、本尊・仏具等を土中に埋めて九州方面に去ったと伝えられています。
 この長者久作の物語は下高倉村に伝わる長者池に関わる話として東作誌に記されているものです。話の中に出てくる明賢が多聞寺に寄進した梵鐘(ぼんしょう)が、江戸時代の中頃になって出土したことは前項で述べましたが、明賢は毎日この鐘をついては両親と姉を偲び、泣いていたと伝えられています。人々はこの梵鐘を「長五郎の鐘」と呼んだそうです。


 また、明賢が学んでいた間山には、当時西の高野(こうや)と呼ばれる高福寺がありました。広大な廃寺跡が今も残っています。


 この他にも、長者池に関わる話がいろいろと伝えられています。幼い頃祖母から聞いたのは長者池ができたときの話でした。


 昔ここ高倉に長者が住んでいました。広い田んぼを持っていて、毎年田植えの時期になると近郷から大勢の人を集めて、1日で田植えを済ませることにしていました。


 ある年の田植えの日、お日様が沈みかける頃に高台に上って眺めると、まだ植わっていない田があって今日中には終わりそうにありません。これを見た長者はさあ大変と扇を取り出し、沈んでいくお日様に向かって「待ってください 待ってください」と叫びながら、下から上へと何回も扇ぎました。すると、お日様が高く戻って田植えをその日の内に済ませることができ、みんな大喜びでした。


 次の日の朝、長者が早く起きて高台に上ってみると、昨日植えた苗はなく田んぼ一面がみずうみとなっているではありませんか。どうすることもできません。これが長者池です。「おてんとう様に逆らうと罰があたりますぞ」


 また、飯山池(いいやまいけ)の奥にあった「姫ヶ池」(現在は田、宇姫ヶ池)は長者のお姫さんが誤って水死した池と伝えられていますし、字名の「揚舟(古くは上船)」は舟を上げていた所と言われています。

(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)