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【津山人】浅本鶴山 -放浪の陶工-

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 放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
 明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。

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赤レンガのお洒落な建物「ランプ」

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 津山城の二階町門の前に、堀に沿って南北に続く町で、一説には、森藩時代の初期には、二階町を西京町と称していたが、その後、豪商の蔵合家が二階建ての家を建てたので、二階町と称したとされる。
 蔵合家は、井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場する豪商で、二階町の屋敷は、間口二十三間(約四十一 m )に及ぶものだった。
ランプの建物。昭和40年代にお好み焼き屋があった赤レンガのお洒落な建物。

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伯耆(ほうき)往来「距津山元標五里」

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距津山元標五里(2017年4月30日撮影)
 江戸時代が終わると、明治政府は道路網の改革に着手しました。明治2年(1869)1月には、行政官布告第59号により、全国の関所を廃止しました。
明治6年(1873)12月には、大政官布告第413号により、全国の主要道路の実測調査を実施し、1里ごとに里程標柱を整備するよう通告を出しました。起点は、東京日本橋と京都三条大橋及び県庁所在地としました。布告の中には全国41のルートが記されていますが、その中に「播磨国姫路より美作国津山夫より伯耆国米子に至る」とあり、出雲往来も含まれています。
 この布告により、美作北条県は、明治5年(1872)8月から明治7年(1874)2月までの間に、管内の津山往来、出雲往来、伯耆(ほうき)往来、因幡往来の実測調査を実施しました。そして、宮川大橋西詰を起点として、桧か松製の標柱を設置し、明治7年2月末までには完了したものと思われます。その後順次木製から津山石(擬灰岩)製に取り替えられました。この時の道標が、「津山元標」と呼ばれているものです。

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和時計 ー西洋の技、日本の心ー

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 平成29年度津山洋学資料館夏季企画展「和時計 ー西洋の技、日本の心ー」いかにして日本は近代国家と成り得たのか?、洋学と共に日本の近代化を支えた機械技術の源流を探る。会期:2017年7月1日(土)~9月24日(日)
 日本にもたらされた西洋の機巧(からくり)としては鉄砲が有名です。その鉄砲と同時期に時間を測る機会ーー時計も日本に紹介されました。当時の職人たちはゼンマイや歯車、カムといった西洋からもたらされた仕組みを改良し、また、日本の不定時法に合わせた、どこにもない独自ののものーー和時計を作り上げたのです。
 洋学という江戸時代に日本に移入された西洋の科学知識と、和時計に象徴される機械技術、これらは明治以降の近代化を支えた両輪といえるでしょう。(文:津山洋学資料館)(2017年8月30日撮影)

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百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

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宇田川興斎旧宅跡(北町) 

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宇田川興斎旧宅跡 未指定(史跡) 北町8番地の7 
 津山市北町の城北橋の西詰の一角に津山市教育委員会が建てた解説板がある。ここが箕作家と並ぶ津山洋学のもうひとつの柱、洋学者宇田川家の四代目宇田川興斎の屋敷であったところである。この場所は、土地所有者本島大道より津山市が寄贈を受け、平成9年10月に整備された。興斎は文久3年(1863)から明治5年(1872)までのあしかけ11年間津山に住んでいた。この北町の屋敷の後、林田町に家を借りて住んでいるが、その場所は不明である。当時は明治維新前後の激動の時代であり、津山にいる間、興斎は東奔西走し、公私ともに多忙な日々を過ごした。

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第39回「津山納涼ごんごまつり in 吉井川」大花火大会

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2017年8月6日(日)「第39回 津山納涼ごんごまつり in 吉井川」大花火大会が行われました。各地で被害をもたらしている台風5号の影響が心配されましたが、無事に大花火大会が終了しました。いつもは寂しい感じのする商店街も、大勢の人をかき分けて先に進むくらいの賑やかさとなりました。また、河川敷も今津屋橋・城見橋の上も花火を見ようと大勢の人で身動きが取れないくらいでした。今年は風が出て涼しくて気持ちの良い大花火大会でした。お世話してくださった皆様ご苦労様でした。私たちを楽しませてくれた素晴らしい花火、そして、素晴らしい第39回 津山納涼ごんごまつり in 吉井川。ありがとうございました。https://youtu.be/FhvCk3QYs4Y

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昭和38年~平成4年頃の元魚町商店街

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 銀天街や元魚町でまちづくりに関わってきた出口剛三さんからお話をお聞きすると、「なぜ早くから県北に商店街ができたのか不思議だったが、市(いち)としては明治初期の頃からあったようです。その当時は天然痘が流行っていて世の中が暗くなっている時に、少しでも町を明るくしようと、富クジを始めた。それが大当たりしたのが誓文払いのはしりとなった。平成4年頃の商店街には、それぞれの顔があり、元魚町商店街は、古本を集めてフリーマーケット(現在のフリマのはしり)をした。また、一番街はお化け屋敷、銀天街は生けすでうなぎを釣ってもらったり、カブトムシを展示したり、各商店街がそれぞれに抽選会をやった。当時のイベントで今でも残っているのは、幼稚園の子どもに協力してもらった一番街の七夕まつりです。」と教えてくださいました。(協同組合元魚町商店街の設立は、昭和38年7月22日です。)(平成29年7月現在の様子です。)(アルネが出来る前の銀天街の様子

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土人形展 (M&Y記念館)

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2017年6月9日に棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)へ出かけて来ました。全国郷土玩具土人形を収集(約2000点)しておられる杉本耕司さんの集められた人形の一部です。現在杉本さんは、津山郷土玩具愛好会を主催されています。次第に作られなくなった(失われていく)物を土俗文化と位置づけて研究されています。城東むかし町家(旧梶村邸)でも展示されています。(年に数回の入れ替え)


曽我五郎・舞鶴
先年市川海老蔵・坂東玉三郎に依り京都・南座にて公演されました。
江戸末期より長野のリンゴ農家の副業として代々製作せれて来ました。
立ヶ花土人形

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おもてなしイベント(文化センター会場)

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2017年7月22日のB'z津山公演のおもてなし会場のご案内です。
 「公演当日は、混雑が予想されますので、津山市内でご近所の方はなるべく、乗り合わせや徒歩で移動をお願いします。」との要望がありました。また、津山文化センター近くでも様々なイベントもありますので併せてご案内してみますね。

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