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法然上人 生誕の地 誕生寺(久米南町)

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誕生寺由来 (2012年11月18日取材)

 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
 爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
 境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)

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山門(国指定重要文化財)正徳六年(1716)と逆木の公孫樹(天然記念物)法然上人十五歳の時手植いちょう。

逆木の公孫樹(いちょう)境内。法然上人十五歳の旅立ちの時、那岐の菩提寺から杖にされた銀杏を地に挿された所、根が逆さに伸び、枝は本来、根っこであるといわれる。

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写真向かって左から山門→逆木の公孫樹→山門→毘沙門天

誕生寺御詠歌の大意
法然上人がお生まれのとき、天の彼方から二流れの白い幡(はた)が飛んできて、庭の椋の木に掛かり、美しく輝いたと伝えられている。

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旅立ちの法然さま。ふたたびまみえる日のなかった母のいるこの地に、別れをつげる幼名せいしまるさま、やがて浄土のおしえをひらく門出ともなった、りりしい旅立ちのお姿。

右の写真は御影堂(本堂)(元禄八年再建)国指定・重要文化財

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御影堂の彫り物も素晴らしい。

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御影堂の宝珠
参拝者が御影堂(本堂)を拝する時、棟の中央に置かれている「宝珠」は、まさに西方浄土の位置。人生で求めるべきところの真の宝であります「極楽浄土」の象徴と言える。

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 新築再建されました瑞応殿(阿弥陀堂)は、建築材料に国産の物を使用(欅・桧・松・杉・ヒバ)日本中の名木で装われ、誕生寺にふさわしい堂々とされたお姿で建立されました。
 又、内部には大光背の阿弥陀如来坐像が素晴らしいお姿でお祀りされています。

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方丈庭園

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鐘楼

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誕生寺ふすま絵
幕末の雪舟・狩野義信
 義信は天明八年(1788)赤穂に生誕。姓を長安、名を義信周得または探雲斎と号した。 幼少より画に志し、大阪に出て紀州藩の絵師、法眼佐野竜雲に師事し、土佐派を学び京都で正信・元信などの画跡をたずね狩野派を修学す。その才覚を大きく認められ文政十年(1827)四十才にして画位「法橋」に叙せられる。

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方丈内部の部屋

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  当山の襖絵は「法橋義信一代の傑作」といわれ、一点雑念を挟まず朗々たる心境にのぞんだ六十八才(安政2年)のまさに円熟した作品である。義信の作品は江戸 時代末期の軟弱化した狩野派にたいし古狩野を目指す気骨が天才を駆使して格調高筆力雄健な作品をつくり出し時流に染まぬ一家の画風を樹てたのである。
 明治元年(1868)八十一才、赤穂にて世を去る。

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方丈回廊から見る紅葉

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方丈から本殿に続く回廊と、軒下にある瓦

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法楽園

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本殿に続く回廊と本殿内部

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観音堂(お七観音が祀られている)
  本堂南側に位置する観音堂は寛永八年(1631)津山城主初代・森忠政公寄進によるものです。
 現在、中国三十三観音特別霊場としての聖観音(慈覚大師作)は、元禄十二年(1699年)当山第十五世通誉上人が、当山御本尊を江戸回向院、増上寺など出開帳の際、八百屋お七の遺族が振袖等を上人に渡され、お七供養を依頼した。上人はそれらを作州に持ち帰り当山のこの観音菩薩前にて、お七の菩提をねんごろに供養されるとともに、再びお七のような哀れなことがない様にと、もし何か切実なる悩み、苦しみ、願望を持つ者あれば、その願いを必ず成就させてやってほしいと、祈願されたのであった。以後、大願成就の「お七観音」として信仰をあつめている。当山の観音菩薩の目を静かに拝する時、衆生の心を見透かすの様な、霊験あらたかな不思議さを秘めている。

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椋の御影と宝篋印塔                 無垢橋

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                              法然上人ご両親御廊

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法然上人ご両親御廊と森忠政公の長男森大善亮重政と忠政公御養母大野木の墓

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法然上人 産湯の井戸

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沢山の五輪の塔

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奥の院 浄土院 六角堂(法然上人御両親菩提所)

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法然上人ご両親御廊から六角堂へ

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《宝物館》と《念仏橋》師法然上人の里に到着した熊谷入道が感激の高声念仏を申したと云われる場所

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宝物館内

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宝物館内

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宝物館内

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地蔵堂(裟婆堂)


法然上人のおいたち

 法然上人は、千百三十三年(長承2年)美作国、久米南条稲岡庄(みまさかのくにくめなんじょういなおかのしょう)にご誕生された。
 父は久米押領使(おうりょうし:この地方の監督)漆間時国(うるまときくに)、母は秦氏(はたうじ)という。漆間家の跡は今の誕生寺である。
時国公夫婦には子供がなかったので神仏に心込めて子の授からんことを願い、やがて四月七日玉のような男の子を賜わった。
 その御誕生の時、空から二流の白幡が舞い降りて屋敷内の椋の木の梢にかかり七日の後飛び去ったと云われる。
以来この椋を二幡の椋、誕生椋と呼び圓光大師(法然上人)二十五霊場第一番のうたとなって広く伝えられている。

両幡の天降ります椋の木は 世々に朽ちせぬ 法の師の跡

 こうした待望のひとり児は勢至丸と名付けられ、すこやかに成長していった。千百四十一年(保延7年)の春、漆間家は突然、明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)の夜襲を受けた。
定明は稲岡庄の預所(あずかり)であったが、押領使時国の人望を嫉妬しそれが夜討ちに及んだのである。
九歳の勢至丸は小弓を以って敵将定明を射る。右目を射られた定明は輩下と共に引上げたが、父時国公は再び起つことのできぬ重傷で臨終に際して勢至丸に仇として定明を追うこといましめ、人としての真の生き方を求めよ(仏道を歩み、安らぎの世を求めよ。)と遺言されて四十三才の人生を終えたが、当時の世相として全く卓然とした人生指針を与えられたものである。
 そこで勢至丸は母の弟である菩提寺の住職、観覚得業上人(かんがくとくごう)のもとに引き取られることになった。観覚上人は勢至丸の偉才を認めて一日も早く比叡山に登って修行するように勧めた。
 やがて登叡を決心した勢至丸は千百四十七年(久安3年)の春、母に別れを告げるために稲岡の里に帰って来た。六年ぶりに相見る勢至丸が再び離郷する心意に、母は数年前夫時国を失い、今また一粒種の勢至丸を遠い都の彼方へ送ることは忍び得なき悲しみであった。勢至丸は心から母を慰め自分の決意を告げた。勢至丸の力強い求道の姿に秦氏君は涙とともにこれをお許しになった。

かたみとてはかなき親のとどめてし この別れさえまたいかにせん 母・秦氏君詠

 母子の恩愛の絆をたちきって愛別された秋、母秦氏君は遠かくの一人子、勢至丸を思いつつ三十七才の若き身を病没された。時に勢至丸十五才であった。
 かくして日本仏教を庶民的仏教として、万民救済の念仏門の元祖法然上人こそこの勢至丸であった。
 八百五十年前、岡山県久米の里のまれにみる信仰深き家庭の中に育ち、その父その母のすぐれた慈愛は無限の尊いものがあり、上人が幼年期を過ごされた場所こそ、今日の誕生寺である。